楽しめばいい
自由にやればいい
これは
指導者が言ってはいけない!
と思っています。
例えば、
フリスビー、ボウリングといったものを
楽しむことはありますけれど、
その世界を知るということではなく、
時間潰し的な楽しさです。
あるいは、誰かとのコミュニケーションの
ツールとして利用しているに過ぎません。
ですから、滅多にやりません。
楽しいとは思いますけれど、
私のように、何かを指導している人間が
下手に
「楽しめばいいんですよ。」
と言ってしまうのは、
ちょっと問題だと思うんです。
その世界を追求する中でしか見えてこないものに
出会うことを、
楽しみとして伝えていくことが、
指導者の大事な役割だと思うからです。
多くの人にとって、
楽しむとは、
享楽的なものであり、
極端な言い方をしますと、
追求することを放棄することで、
味わうものです。
ですから、
「楽しめばいいんですよ。」
と言ってしまいますと、
浮き足立ったような楽しみ方
を目指しかねない
と思うんですね。
「自由にやればいいんですよ。」
というのも、同じですね。
昔、ある茶道の大家のような人が
インタビュアーの「お茶はどう飲んだらいいのでしょう?」
に対して
「自由に飲めばいいんですよ。」
と答えていました。
インタビュアーは苦笑していましたけれど、
(そりゃあ、そうですよね 笑)
本当に自由に飲めばいいのであれば、
茶道自体を否定することになります。
もちろん、真意はそこにないでしょう。
けれど、だからこそ、
真の自由(に飲む)でいられるようになるための
道筋が茶道の作法にある
(あるのかどうか、私はわかりませんが)
といったことを
きちんと伝える必要があると
私なんかは考えるわけです。
それが、ここでいえばインタビュアー、
聞き手に対する誠意
だと思うのです。
偉くなった人たちは、
どうも簡単に
「楽しめばいい」
「自由にやればいい」
と言いがちです。
究極的には、そうかもしれません。
けれど、
間の道筋をはしょり過ぎ。
誠意がない。
また、ちょっと視点を変えますと、
一般的に「楽しむ」「自由に」というのは、
“自分”が主体だと考えてしまいます。
「私が楽しむ」
「私の自由に」
けれど、
それは本源的な意味では違うと思います。
その世界との融合の程度、
“自分”が薄くなり
ただその世界を創り出している、
といった状態が
「楽しむ」「自由に」なっているのだと思うのです。
つまり、
“自分”は、
その世界の構成要素になれたとき、
「楽しい」し「自由」なのだと。
少なくとも
アートマイム/オーガニックマイムを学ぶ人には、
そこを目指してもらいたいですし、
それを感じ取っている人が
真剣に長いこと取り組んでいるのだと思っています。
「楽しむ」「自由に」という言葉、
考えてみて損はないのではないでしょうか?
7月24日 発売予定
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