オーガニック・アートマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

自我を消す。

パントマイムは、「私」というものと、「私の身体」というものを、一致させる訓練なんです。

んっ!?

何だか、よく分かりませんねえ・・・

簡単にひと言で言ってしまいますと、身体を意識的にコントロールしつつ、その意識を身体にではなく、行為そのものに、向かわせる・・・あららぁ、かえって、難しくなってしまいました・・・

たとえば、わざと(演技で)「驚く」という行為は、まあ、誰でも出来ると思いますけど、それは、大抵は顔だけの演技か、よくて、開いた両手を胸の辺りに上げる、といったところだと思うんですけど、いかがですか?

まあ、なんにしましても、顔でも、身体でも、ポーズ(形)を作ろうとするはず。

ところが、パントマイム(あくまでJIDAIマイムですけど)では、これは基本的に、御法度。

と言いますのは、このポーズを作るということは、「私」と「私の身体」が一致しないから。

こういった類いのポーズをとることは、「私」が「私の身体」を支配している状態だと、考えます。

ではではぁ、演技ではなく、本当に驚いた時は、どうなんでしょう?

これは、確かに、ある意味では一致していますけど・・・

その「私の身体」は、あくまでその人個人の身体。
ある特定の動きの癖を持った身体です。

その身体が無意識に表してしまうものでは、普遍性がない。

(いくら、本人が「これは驚いているんです。」と言いましても、原則、万人に分かってもらえるものでありませんと・・・)

わざとのポーズはもちろん、このように、癖のある非常に個人的な動きも、厳密に言いますと、「私」と「私の身体」は分離された状態と考えるわけです。

分かったような、分からないような・・・という感じだと思います。

すみません・・・ぅぅ。。

このあたりのことは、具体的な動きをお見せ出来ますれば、一目瞭然、簡単に分かっていただけるんですけど・・・ぁぁ。。

まあ、いずれにしましても、「私」と「私の身体」というのは、簡単には一致してくれないんです。

何せ、「私」というのは自我であるのに、「私の身体」は普遍性を持っていなければいけないわけですから。

以前にもお話しましたけど、パントマイムでは「私」を見せるのではなく、私を通して見せる。

それも、コントロールされた動き・ポーズを通して見せる。

本来見せなければ(感じさせなければ)いけないはずの、たとえば「驚く」が、ポーズの存在感が強すぎては、驚きが見える前に、ポーズが見えてしまう。

身体を消さなければいけないんです。

消すための身体に対するコントロールを、意識的にしつつ、意識が、行為そのものに向かう。

驚く。
ただ、驚く。

と、まあ、「私」と「私の身体」の一致、つまり、「ポーズを見せず、行為を見せる」ということのためには、自分というもの、自我を、いかに消していくか、無くしていくか、ということが、重要になるんです。

ほとんど、戦いです。

「私」VS「私の身体」!

私がパントマイムの訓練を、瞑想みたいなものと言っていますのは、このあたりのこともあるんです。

・・・なんだか、これからパントマイムを始めようか、と思っている人には、物凄~~ぉく、とっつきにくいものになってしまいそう・・・ぅっ

けれど、「私」と「私の身体」が一致したと思える瞬間が、快感といいますか、前にも言いました、宇宙と一体化する、という感じで、やめられなくなるんですよね。

自我を無くすって、現代人に最も求められた状態じゃありません?

ああ、こんな、自我の薄~い状態が、日常いつもあるといいんですけど・・・ふ~ぅ。。。