前回、書きましたように、自分を自分として、安心して認識するために、その人をその人と、安心して認識するために、自分の、その人の自由を奪っている。
過去の行為によって、規定し、これからの行為を限定してしまう。
「自由な社会」。なんて心地よい響きなんでしょう。
みんなが、それぞれ自分の意思に基づいて、何に縛られることなく、自分自身を生きる。まさに、理想郷。誰もが望む社会。
素晴らしいっ!
あれっ?自分自身の自由を、既に自分自身で奪ってしまいるのに。。。?
一体自分は、何をしたら、自由なんでしょう?
自分を規定しないこと。これからの行為と、過去の行為に何の繋がりもないこと。
こんなこと可能なんでしょうか?
安心を手に入れるために、自由を奪った。
ほんとの自由が手に入ったら、不安が生じる?
自分が自分だと、はっきり分からない。さっきの自分と今の自分が、同じとは思えないから。
あの人が、今までと全く違う人であるかのように振る舞われたら、私は混乱する。昨日と、さっきまでと、同じ人間であるように、振る舞って欲しい。
自由というのは、「分からない」ってことなんでしょうか?予想がつかない。何が起っても、不思議はない。他人のことはもちろん、自分自身のことでさえも。
自分がこれから何をするのか、自分でも分からない・・・人殺しもあり得る????
あの人がこれから何をするのか、見当もつかない・・・殺されるかも???
ありゃりゃぁ~、自由って恐ろしいわぁ。
まあ、ほんとに自分が自由になったら、自分を自分とは認識できないでしょうから、そう、赤ちゃんのように、ですから、恐いものなんて、何にもなくなるとは思うんですけどね。
自分のことが、まるで分からなくなってしまった老人にも、似たところはありますね。
ただ、この時の自由って一体なんでしょう?
自由意思に基づくも何も、誰の意思に基づくんでしょう?
本人は、自分のことが分からないんですから、自分の意思なんて自覚しようがないはずですけど。
自由なんて、妄想ですね。
不自由な中にしか存在しない。
自由ということを、感じたければ、不自由な世界に生きていくことを、受け入れなければならない。
ほんとの自由はあり得ないってことを前提に、「自由な社会」を望むしかないみたいです。あぁ・・・