心とは何か?
というのは簡単な問題ではないですけど、
「自分には心がある」
と思ってしまうような
意識のあり方
があることは、
間違いはないですよね。
では、
他人にも心があると
どうして信じられるのか?
それは、結局のところ、心というものを、
自分と同じような反応をするかどうかで
見ているのだと思うんです。
ある人が何かに反応するのは、
それは
自分にもある(と思っている)心を、
その人も持っているからだろう
と考えるわけです。
その相手にしましても
こちらに心があると思うのは、
同じ理由ですね。
つまり、
そういった見方の中にこそ
「心」が存在するのであって、
自分の見方と全く無関係に、
どこかに「心」が存在するわけではない、
そう思うのです。
植物に心があるという人は、
植物の反応に心を「見ている」
あるいは「見ることができる」のでしょうし、
植物に心があるとは思えないという人は、
その反応自体が見えないのかもしれませんし、
見えたとしても
それは生命システムとしての反応に過ぎない
と「見る」からだと思うのです。
一方、
誰も思えないのは、
肉体を持っていないからだと
思うんです。
仮に、体に相当するものと組み合わされていても、
それは自己治癒力を持たない
生命としての体ではなく、
無機物だからだと思います。
ただ、そう考えますと、
鉱物にも心があると考える人は、
心があると考えるのかもしれませんよね。
それにしましても
なんらかの原因で
「自分には心がある」
という意識を持てない場合、
他人にも心を見ることは
出来ないだろうと思うのです。
こういったことに
答えが出るとは思いませんけれど、
少なくとも、
身体表現・身体演技の場では
観客の見方の中に
演者の心があるわけです。
そことどう向き合うか?です。
それはすなわち、自分の心と
どう向き合うか?です。
なんだか、堂々巡りのようですけれど…