何かを学ぶ際に、宗教的になることを
どう思われますか?
以前、ある有名な人のワークショップに
知人に誘われたこともあり、
参加したことがあるんですね。
身体技法というよりも
内面的なことを
扱う内容でした。
50名くらいの参加者のうち、
何年もその先生に学び続けている人たちも
多くいた感じでしたね。
人気の先生です。
そんな中、
7~8人のグループに分かれて、
定番らしきワークを。
初めは何をやろうとしているのか
全く分からず・・・
ですから、
お互いに出すOK・NGも
判断基準が全く分からず・・・
そんな中
2回ほど回ってきた私には
OKを出す人もいるのですけど、
まぁ、ほぼNGだったんです。
当たり前ですね(笑)
そうしましたら、
あるベテランさんに対して
「そうじゃないだろ!」と
先生がかなり怒りながら
「こういうことなんだよ、
よく見てろ!」
と、見本を見せてくれたんですね。
で、
分かったんです。
何をやろうとしているかが。
ですから、私はその後は、
他の人へのOK・NGも迷いなく出せるようになり、
私自身へも常にOKを出してもらえるようになったんです。
先生はその様子を見て、
「分かってるな」
という顔をしていました。
けれど、怒られたベテランの人も含め
他の人たちは、
見本を示される前と変わらず、です。
他のワークも
概ねこんな感じでした。
初めの指示では
何をやろうとしているのか
分からず、みんなと同じように
ほぼ出来ない状態で、
けれど、先生が見本を見せてくれた後は、
他の参加者は相変わらずだけれど、
私は100%確実にこなせるという。
これは、自慢ということではありませんで、
このワーク、この教えは
一体なんなんだろう???
って考えさせられたんですね。
この先生にとっては
完全に「心の持ち方のワーク」
なものですから、
抽象的になり、
多くの人がよく分からない中、
ずっと手探り状態なわけです。
それも、何年でも!
ところが、
私には身体技法なんですね。
見本を見た後、何度でも確実に出来たのは、
具体的な身体技法に落とし込めたからなんです。
ですから、
その後、自分のクラス生に指導をし、
あっという間に、
みんな出来るようにも出来ました。
それほど難しい身体技法ではないということです。
仮に身体技法として身につけても
意味がないのだとしますと、
身体技法として出来てしまう私に
NGが出せなければ、
ワークが成立しないはずですよね?
受け手には、正解が判然とせず、
先生だけは確実に正解を知っているという
心を扱う抽象的なワークで、
出来ない人を叱りつけるというスタイルは、
「教祖と信者」
という関係を
作り出しやすくしてしまうように思うんです。
その先生自身は
決して意識的に
教祖と信者という関係を
生み出そうとしているわけではないと思います。
むしろ、そうなってはいけないと
考えているように思われます。
けれど、
この先生はとても魅力溢れる人で、
多くの人が好きになるのも分かりますから、
教わる側では
自分自身への肯定感が低かったり
世界への喪失感が強かったりしますと、
容易に無意識に
先生を教祖に仕立て上げてしまいます。
宗教という名が無いだけに
気がつきづらいですけど・・・
こうなりますと、
決して、先生を超えることは出来ませんし、
ますます自分を見失い、
自分自身への肯定感はさらに低まり、
世界への喪失感はさらに強まります。
(あら?引き寄せの法則ですね。)
先生の言うことに疑いを持てるか?
罪悪感を覚えるようでしたら、
危険かと。