よく「本当の自分」とか「ありのままの自分」という言葉を耳にしますけれど、前回の記事を読んで下さった方の中には、ピンと来るものがあったかもしれません。
感じるという求心性の感覚と、その感じたことを実現する、運動に変換するという遠心性の感覚。
前回、この重要性をお話しました。
その際、こんなことを言いました。
「求心性の感覚は誰でもしっかりあると思うんです。そこに深く潜って触れられるかどうか?です。
浅いところで分かった気にならないことが大事。」
「本当の自分」とか「ありのままの自分」といいますのは、ここで言う「浅いところで分かった気に」なったような自分ではなく、「深く潜って触れ」た自分ですね。
私は誰でも自分の中に、残虐性も狂気も、慈愛も虚無も、あらゆるものを持っていると思うんです。
(『どんな訓練を積んでいくと身体表現・身体演技が上達するのか?』)
ところが、社会生活に馴染んでいく中で、世間の価値観に毒され、また同時に、自分をその社会に適した人間だと思いたいがために、思われたいがために、自分の中の狂気のようなものを無いものにしてしまう。忘れてしまう。
自分の中にそういったものを認めることと、実際に表に出すこととは別です。
求心性の感覚が、そのまま遠心性の感覚になってしまうわけではありません。
前回お話したように、それは大きな勘違いなんです。
表現の世界に携わる意味の一つに、自分の中のストレートに出してしまってはまずいものを昇華して表に出すことがあります。
その表現には文章や写真・絵など、間接的な方法もあるでしょうし、演技といった直接的なものもありますね。
一般的に演技に抵抗・恥ずかしさを感じるのは、直接的だからです。「本当の自分」をさらけ出してしまう感じがするからです。
だからまた、自分を変えようとしてお芝居に挑戦する人もいるわけです。
そして、表現の世界には、求心性の感覚を高めるために、様々な経験が大事だとされるのですけど、経験を多くすることと、自分の中に深く潜って触れることとは、全く別のことです。
といって、求心性の感覚に蓋をしたまま、遠心性だけ取り繕うとどうなるか?
少なくとも、表現の世界では、つまらないものになりますね。
特に作品をつくるといった創作活動におきましては。
いわゆるいい人の創るものが得手して面白くないのは、こういうことですね。
さて、「本当の自分」とか「ありのままの自分」が何やら素敵な自分であるかのように思ってしまうかもしれませんけど、そんなことはないですよね。
もちろん、自分が思っている以上に素敵な自分である場合もあります。
いずれにしましても、見たくない自分を受け入れる気がありませんと、当然見えてこないわけですけど、これは身体の使い方を学ぶ過程でぶつかる問題でもあるんです。
癖がなかなか取れない深い要因がここにあります。
求心性の感覚に蓋をしたまま、遠心性の感覚を何とかしようとしている無理が癖として現れる。
どんなものでも外に現れるのは遠心性の働き。そこに何か引っ掛かりがあるとすれば、それは求心性の感覚に浅くしか触れていないからかも?
そう思えるようになると、引っ掛かりが薄れて、スムーズになるのではないでしょうか?