耳には聞こえない音があります。
難しいことを言っているのではないんですよ。
心の中で独り言のように喋る、声を出さずに本を読む、これ、耳には聞こえない声、音ですね。
で、人の動きを見ている時も、その人から実際に音は出ていなくても、無意識に音を感じているんです。
スポーツ映像を無音で見ていても、どこかで音を感じている。
選手がぐっと踏み締めた時、フワッと舞った時、音に変換しているわけではないけれど、その質感を感じている。
ですから、逆に、その質感を音として表現できるし、その音の質感で動ける。
同じ、素早く動くのでも、「サッ!と動いて」と言われるのと、「バッ!と動いて」と言われるのとでは違いますでしょ?
どんな感じで動きますか?
サッ!ですと、躊躇ない軽やかさ、雑音のない感じ。
バッ!ですと、ちょっと力みがあるような、重みがあって激しい勢いになりませんか?
こういった、人の動き(動いているかどうかも関係なく本当はあらゆるもの)を見ている時に無意識に感じている質感・音を、極めて重要なものとして扱うのが私の専門であるアートマイムなんです。
例えば、大の字のような形で立っていたとしまして、形としては誰でも同じになるけれど、ある人はパーッ!とより大きくなるような感じに見えるでしょうし、ある人はきゅっと閉じているような、ちょっと無理しているなと感じさせるかもしれません。あるいいは、何もないただ形だけという人もいるでしょうね。
といったように、同じ(大きな)形をとっても、現れてくるものは同じではない。
それが質感であり、私たちはみんな自然とその違いを感じ取っているわけです。
アートマイムではこのような違いに自覚的になることが、表現力を高めることと言えるんです。
ところが、自分が発している質感には、非常に鈍感だったりするんですよね。
ムスッとしている気はないのに、いつもムスッとしているよね、と言われてしまったり、
ひと言も喋っていなくても、なぜかうるさいと言われてしまったり、
興味津々で聞いているのに、興味なさそうだねと言われたり・・・
まあ、無理に内面を出す必要もないのですけどね。
いずれにしましても、他人の発している質感に対してよりも、自分が発している質感には鈍感なところがあります。
特に、日常生活の場ではなく表現の場では、この鈍感さは致命的になるであろうことは、想像に難くないと思います。
けれど、スポーツでも演奏でも何でもですけど、身体の使い方を良くしていくときでも、やはり同じことなんです。
ひと言で言いますと、やろうとしていることと、実際にやっていることの違いが、どれくらい分かるか?なんです。
自分が発している質感に鈍感とは、やろうとしていることがイコール、実際にやっていることだと思ってしまっているということでもあるんです。
これは、出そうとしている音と実際に出た音の違いを、認識していないということとも言えます。
耳に聞こえる音ですと、例えば歌声、出そうとしいてる理想の歌声と実際に自分の口から出てきた歌声の違いは、自分で分かりますよね。
けれど、動作となりますと、非常に分かりづらい。。。
ボールが当たったとか、どこまで手が届いたとか、分かりやすい結果ではなく、質感の違いとなりますと分かりづらい。。。
それでも、発するべき質感を音として、自分の内側で、心の中での独り言のように発しますと、だいぶ近づきます。
質感をイメージしたままで動くよりも、音を内で発することが重要なんです。
なぜか?
質感といいますのは、受け身の感覚なんですね。
受け身の感覚のままでは、自分が動くということには反映させづらい。
それに対しまして、音を出すというのは能動的な行為。
つまり、受け身感覚である質感を音に変換することで、動きに必要な自分の筋肉に指令を送る、その小さな、けれど重要なスイッチが入るんです。
ですから、動きの上手くいっていない人に、「自分の今の動きを音にするとどんな感じ?」と聞きますと、上手く答えられません。答えても、言葉的な文字に書いたような音であって、音になっていなかったりします。
逆に、何度か上手く音を発するようにした後では、動きも良くなります。
「大切なものは目には見えない」ではないですけれど、耳には聞こえない音に目を向けられるかどうか?
特に、自分がどんな音を発しているのか?
目を向けてみてはどうでしょうか?