表現といいますと、日常生活から離れた特別な行為のように思ってしまいますけど、私たちは日頃から常に表現しているんです。
家族といるときと、仕事関係の人といるときと、友達といるときと、それぞれ違う顔ですよね?
それは表現。
ただ、表現しているというよりも、表現されてしまっているという感じです。
先日、SNSでこんな言葉をアップしました。
「表現というのは、現れるものであって、するものではないんだろうなぁ。」
表現されてしまっているとは、ここでいう現れるですね。
ですから、表現とは思っていない。表現する、ではないから。
もちろん、ここには個人差が大きいと思います。
意識的に演じている・表現している人もいるでしょうし、それがあまりに当たり前になってしまって、本人は演じているつもりはないけれど、実は演じている。結構多いと思います。
一方、全く演じられませんと、社会生活は大変です。
一般的に、どこでも誰とでも全く同じままの言動をしている人を、精神疾患があると見ます。
お話が逸れそうなので戻りまして、表現というものを、「する」と「現れる」で考えてみますと、
日常生活で誰かが演じているなぁという態度で接してこられた場合と、そうでない場合とで、どちらに違和感・不自然さを感じるか?といえば、明らかに前者で、それは表現を「する」であって、「現れる」ではないからですね。
逆に言いますと、違和感・不自然さを感じるから、演じているなぁと感じるわけです。
(ですから、「現れる」であっても、本人が分からなくなるくらいに演じてきた結果ですと、大元は「する」ですから、違和感・不自然さが生まれると、私は思っています。)
というわけで、表現は「する」よりも「現れる」ようにしたほうが、表現内容が受け手に届くわけですね。
(「する」で届くのは、表現者の熱であって表現内容ではないということでもあります。)
では、なぜ表現を「する」ようになってしまうのか?
欲。
不安。
欲とは、ひと言でいえば承認欲求なのかもしれませんけれど、自分をこう見て欲しい・こう扱って欲しいという、受け手側に判断の余地を与えないように、押し付けていく感じですね。
「する」表現に対する違和感、つまりちょっと引いてしまう感じは、この押し付けによって生じる自然な反応なんだと思うんです。
不安とは、伝わらないのではないか?という不安。当然、伝えたいことがあってこそ生まれるものですから、欲ということでもありますね。
表現が過剰になります。
よく、俳優さんが演出家からOKをもらえず、何度も何度もやり直しをさせられる、それもただ「そうじゃない」みたいな感じで、やり直しをさせられるという話がありますけれど、これは、「する」が無くなるのを待っている。「現れる」を待っているわけです。
じゃあ、「現れる」って、何?となりますよね。
簡単ではありませんね。
だからこそ、この「現れる」をアートマイムのクラスでは身体の使い方や「エモーショナル・ボデイワーク」を通して学んでもらったり、作品づくりを通して学んでもらったりしているわけです。
いずれにしましても、「現れる」という状態を少しでも意識的に体験できますと、「する」になってしまっている時に気づけるようになると思うのです。
「する」になってしまっている時に気づけること。
これが極めて重要。
「現れる」になるのは難しくても、「する」になっていることに気がつければ、チャンスはある。
ただやはり、気がつくのは難しい。受け入れられないということもあります。
だからこそ、同じことになりますけれど、身体の使い方や「エモーショナル・ボデイワーク」を通して「現れる」という状態を少しでも意識的に体験してもらっているんです。
「現れる」表現は、逆説的ですけれど、自分から離れた感じがします。ちょっと他人事のような。
「する」表現には、自分がべったりくっついている。隙間がない。受け手が入り込む余地がない。
「現れる」表現は、自分が薄い。隙間があるといえる。受け手が入ってこられる。
表現は、非日常の場だけに限ったものではなく、誰でも日常的に行なっていること。
あまり意識的になりますと、「現れる」ではなくなり「する」になってしまいますけれど、
今回のようなお話、一度でも意識に上げたことがあるかどうかは、大事ではないかと思っています。
最後までありがとうございます。