音楽のことは、全くの門外漢ですけど、演奏といいますの、音符を弾くのではなく、
音符と音符をどう繋ぐか?
だと思うんです。
体を動かすことも同様で、
動き=ある形から次の形への移動
と捉えてしまいますと、それでは、動きは生まれないんです。
で、形が生まれるかと言いますと、形も生まれない・・・。
もちろん動いていますし、形も作っていますから、その意味では、動きも形も、あるにはありますけど、
生きていない
死んでいる
ということなんです。
音符を弾いても、演奏にはならないのと同じです。
「動き=ある形から次の形への移動」の場合、その移動中は意識が飛んで(ジャンプして)しまいまして、形という点が、ただ点々と存在するだけになってしまうんです。
形と形の間には、また別の形があるわけで、その別の形と最初の形の間にも、また別の形があって・・・
数は永遠に半分にし続けられる、といったところですね。
分かりやすい形、例えば振り付けのポイントになるような形というものは、そういう意味で言いますと、あくまで動きの通過点。
単なる移動して捉えられがちな部分の動きと、価値は同じということなんです。
ただ、ものすごく動きが凝縮しているために、移動の部分から見ますと、止まっているように見えたりと、目立つわけです。
最初に、形も生まれないと言いましたのは、ここのところなんですね。
いわゆる形と言いますのは、動きの凝縮ポイントなわけですから、ある意味では、移動の部分よりも、さらなる動きが必要になるはずなんです。
動きを内在しない形・ポーズ・ストップは
死んでいる。
話が逸れますけど、舞踏を学ぶ難しさは、ここにあると思うんです。
見た目の動き・形ではなく、動きを内在化しないと成り立たない。
と、舞踏が学びづらいと言いましたけれど、本当はすべての動きは、学びづらいものなんです。
分かりやすい形があるものは、一見学びやすいですけど、学びやすいということと、本当に学ぶということとでは、大きな隔たりがあるんですね。
きのうの『テクニック講座』では、形と共に、動きの内在を感じてもらえたと思うんです。
ですから、ご自分で練習する際、形を思い出すといったことではなく、自らの肉体感覚に頼れますから、借り物の動きではなく、自分の動きとして、自由を感じることができるはずです。
応用が効く。
動き=ある形から次の形への移動
ではなく、
動き=凝縮された無数の形の連続
なんですね。