個性を活かす。個性を伸ばす。
って、素晴らしそうですけど、個性ってそんなに大事なものなんでしょうか?
と言いますか、個性というのは、敢えて活かしたり、伸ばしたりしないと、発揮出来ないものなんでしょうか?
個性といいますのは、その人が、そうとしか出来ない、そうとしか考えられない、そうとしか生きられない、その「そう」なんだと思うんですよね。
自分自身の中では、その「そう」を個性とは感じないのじゃないかしら?
あくまで、他人がその人の「そう」に違和感を憶え(良い悪いは別として)、「そう」に「個性」という名前を付けるのだと思うんです。
どうも世の中では、個性という言葉で、
他人と比較して優れたところ、社会やある集団・グループの中で、有用な能力
を表しているような気がします。
もしくは、単にあることが出来る出来ないや、クセといったものを個性の名の下に、美化しているようなところも・・・
個性といいますのは、同じことが同じように出来るといった、共通性が前提にあって、初めて生まれてくるものではないんでしょうかねぇ?
クラシカルな世界といいいますのは、まさにそんな世界だと思うんです。
クラシック音楽、クラシックバレエ、歌舞伎、お能・・・基本は同じ形の中に入ること。
徹底して個性を廃し、学ぶ者は共通のものを身に付けていく。
そうやって、個性を無くしていった先に、「そう」としか出来ない、その個人特有のものが残る。
それが、その人の持ち味であり、個性なのでは?と思うんです。
個性を伸ばす教育の下で、他人より優れた、社会に有用な能力を発見出来なかった人は、出来ないのも個性だよね、といった慰めの下に生きていかなければいけないんでしょうかね?
特技は個性が関与していますけど、
特技は個性とイコールではありません。
私はパントマイムをやっているから、個性的か?といえば、そういうことではありませんでしょ。
パントマイムが持つ何かに、どうしようもなく、わけもなく惹かれてしまう、それが個性の表れだと思うんです。
ダンスでもなく、お芝居でもなく、絵でも、音楽でもなかった。
どうして?
分かるわけがありません。理由なんて、すべて後付けですもの。
個性は、その人の生命のありよう。
宇宙の始まりみたいなもの。(ビッグバーンではありませんよ。あれは始まりとはいいません。)
個性を大事にするというのは、その人の生命のありよう、人生を大事にすること。個性を伸ばそう!なんて言っている、この社会に押し潰されないように、人生を歩むこと。
人生よりも、生活の方が大切だと思っている社会に、個性は似合いませんね。