「守破離(しゅ・は・り)」という言葉があります。
まずは、師匠の教えを忠実に守っていく。形を真似る。
それが極まってきたら、
自分の工夫や他流派の研究を加えるなどして、守るから(打ち)破るへと移っていく。
そして、最後は師匠の元、形を離れ、独自のものを探求していく。
武道や、伝統を継承していく世界では、とても大事なこと。
今の世の中では、個性やオリジナルが最も価値ある重要なことであるかのように、いわれていますから、
最初から「離」を目指すところがあるように感じます。
けれど、「離」はその前段階である「守」と「破」があって、はじめて成り立つわけですから、
それは「離」とは違うものですね。
私のマイムは最初はずっと独学でしたから、「守」も「破」もありませんでしたけれど、
ポーリッシュマイムと出会ってからはひたすら(9年か10年くらいでしょうか?)
「守」になったんです。
ちなみに「守」といいますのは、
「えっ!? それって、何のためにやるの?」
なんて考えないということ。
いえ、まぁ、実際にはそう思うことはあったんですけれど、とにかくやりながら、自分なりにその意味を見い出していくようにするんです。
とにもかくにも、師匠のやることには全て意味があると。
ところで、ポーリッシュマイムを学び始める時に、言われたんです。
「マイムやってきてる人ってみんな、癖を取るのが大変なんだよね。」
そうなんですよね、一般的にパントマイムといいますと、みんな独学に近い感じなものですから、
まぁ、もちろん、多少はどこかで習ったりもするんでしょうけど、
1年とか2年もすると習うことをやめて、自分のやり方になっていくことが多いようですから、
癖がつきやすいんですね。
(もともと習う動きに癖がある場合もあるかもしれませんけれど・・・)
さらに、癖という自覚のないものでも、
たとえば「カベ」、がその人なりに出来てしまうものですから、
ポーリッシュマイムの「カベ」が身に付かないんです。
つまり、「守」どころではないんですね。
「守」のまえに「捨」がなくてはいけないんですけど、身体が「捨」てさせてくれなかったりするんです。
もちろん、それは「出来ている自分」を手放したくないという思いがあるからなんでしょうけどね。
幸いなことに、私はそれまで自分でやってきたマイムではダメだ、一から学ばなければという強い思いのおかげで、
比較的スムーズに「捨」は出来まして、とにかくひたすら「守」だったわけです。
で、どこまでが「守」でどこからが「破」や「離」なのかは、よくは分りませんけれど、
おそらく今は「破」なのかな?と。「離」ではないだろうとなと。
(あと5~6年したら「離」に入っていけるのかなぁ、、、)
とまぁ、私にとってマイムは、武道のようなものですから、
先人の見た、あるいは見ている宇宙(世界)を見るために、
まずはひたすら先人の真似をすることは、とても重要だったわけです。
個性重視という価値観(他人の目)を気にして、
その真似ることをやめてしまうという選択肢は、私には無かったんですよね。
こういうのって、今どきではないのかもしれません。
けれど、私という存在は、
たまたま今という時代に生活しているだけで、
何も
今という時代を生きなければいけない、
ということではないと思うんですよね。
なんだか大袈裟かしらねぇ。。。
まぁ、私は歩みは遅いですけど、歩みを止めないようにすることで、
「離」に行けたらなと思うんです。