オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

あるサッカー選手の走り

おとといでしたか、テレビをちっらと見ていたんですね。
サッカーJ1の選手でしょうか、日本代表かどうかは分かりませんけれど、
コーチの指導で走り方が変わってきたらしく、
それがいいプレーを生むようになり、今まででは考えられないようなシュートを打つようなことも出てきた、と言うんです。

そのシュートといいますのは、バランスを崩した走りの中で、利き脚ではないほうの脚で決めたようですね。

映像も見ましたけれど、動きの中で打つ、素晴らしい!ものでした。
あの体勢で利き脚ではない側でシュートするというのは、頭で考えていたのではまず不可能。
身体の反応に任せたプレーのように感じました。


ところでなんですけど、私はそのニュースを聞いて、なんだか寂しい気持ちになりましたわ。。。

なぜか?

サッカーにとって走ることは、何より大切な気がするんですけど、その走り方があまり研究されていないんですね。。。

ドリブルの練習はするんでしょうし、走り込みもするんでしょう。
けれど、「走り方」というのは練習しないようですね。

走るという動作はそんなに簡単なものでしょうか?

長い時間走れるでありますとか、早く走れるというようなことも、
ただ反復練習的に量をこなすことや、素質や才能任せではもったいないと思うんです。

走り方を追求していきますと、
走りながらの方向転換や、出だしの一歩目の速さなどは全く質が変わってきますし、
上半身の自由さも全く違ってきます。
ぬかるみにも強くなります。体力の消耗具合も。

あぁ、、もったいない。。。

もともと凄い能力を持った人たちですから、もっともっと凄くなるでしょうに。。。

戦術ばかりを研究し、それに見合った技術や体力をつけていこうというのは、どこか無理な感じがするんです。

必ずしも否定はしませんけれど、例えば、マイムでもダンスでも身体表現の場合の、
「こんな作品をつくろう!」と構想を立て、それに必要な技術を磨いていくという、
そんなやり方に似ていると思うんですね。

そう、決して悪いことではありませんよね。
むしろ、そのことで新しいものが身に付いたりするわけですし。

ただ、大変だなぁと思いますのは、基本的に頭で考える発想といいますのは、
積み重ねではなく「ひらめき」
が重要で、それは一瞬で成立し得ますけれど、身体的なものは、そうはいかない。

イデアがどんなに素晴らしくとも、それを実現できる身体にするには、どうしたって時間が必要。

下手をしますと、身体はその自らの自由さを失い、ただアイデアの奴隷になってしまうかもしれませんし・・・
そうなりますと、その身体の持ち主であるプレーヤーの心や頭脳も自由さを失い、イデア(作品の構想・振付家・指揮官)の奴隷になってしまうような。。。怖いですよね。

サッカーでも身体表現でも、戦術・構想ありきだけでなく、プレーヤーの身体(動き)の質を変えていくということにも、目を向けるといいと思うんです。
(向けてはいるんでしょうけれど、走り方の件を考えますとね・・・)

それは、何もたくさん練習するということとは違うと思うんです。
大切なことは、つらい思いをしながら練習することではなく、
同じような動きが、どうしたらもっと簡単に楽にできるか?を考えること。
同じ筋力のままで、どうしたらパワーアップできるか?を考えること。

身体(動き)の質が変わってきますと、おのずとアイデアも変わってきます。

もし今までと同じアイデアだとしましても、その実現具合の質が全く変わってくるはず。


で、さて、このお話の最初、走り方ですけれど、これはつまり歩き方とも言えるわけでして、サッカー選手に限らず、誰でも同じ。
ランニングやウォーキングで量をこなすことより、
その一歩一歩がどれだけ質の高い動きになっているか?が大事だと思うんです。

走り方、歩き方、簡単なこと?