『なんだかわからないのですが、
「そうかぁ…,そうだよなぁ…」と、
何をどう納得しているのかつかめないままに
それでも何かを納得していました。
そうしたら、なんだかわからないのですが泣きそうになってしまって、
泣いたら観られなくなっちゃうじゃん!と、
必死にこらえていました
「なんだかわからないけど何かが分かった」
という体験はJIDAIさんのマイムからよく起こることなのですが、
今回(『劫』)は、その度合いが激しかった気がしています…
むしろ
「なんだかわからないからこそ分かった」
という感じすらあります。
実際に体験してしまうと,とてつもなく心地よかったりするんですね、これが。』
公演から1週間後にメールでいただいた感想の一部です。(許可をいただいて紹介させていただきました。)
もちろん皆さんが皆さん、こんな素敵な体験をして下さったわけではないでしょうけれど、
公演後しばらくしましてから、他にも似たような感想をメール、直接問わず、たくさん頂戴しています。
いやいや、本当にありがとうございます!
どの方も共通して、溢れる想いをたくさんの言葉で(長い時間)語りかけて下さいます。
そして必ず
「よくは分からないんですけど・・・涙が」
思いますに一般的に人は、自分が興味のある(理解の出来る)ものを見ることで楽しいと感じますけれど、
分からないものを目の前にしたとき、どう感じるかは大きな分かれ目な気がするんです。
「分からない」=つまらない→忘却
大抵はこうですよね。
これは、つまらないと感じるのですから、しかたありませんね。つまらないものを、面白いと思え!と言われても困りますものね。そんな無茶な・・・ですよね。
私も言われて良い気分はしません。
けれど、
「分からない」=何だろう?
となるようでしたら、それは大事にしたほうがいいと思うんです。
それは、以前には自分の興味のあることの範囲には入っておらず、興味があるということを、今の今まで自分自身気が付いていなかった、ということだと思うんですよ。
こういう形で現れる、まるで外からやって来る自分の知らない自分というものを、掴んで放さないようにしますと、ちょっと人生が変わると思うんです。
生活が変わるかどうかはわかりませんけれど、人生は明らかに変わりますね。
『劫』では、おそらく皆さん、
「存在」の奇跡
を感じ取ったのだと思います。
(こう思うはずだ!というのではありませんし、こう思ってほしいというのとも違います。皆さんの感想からの考察です。)
宇宙が存在し、自分が存在し、理由は分からないけれど、何故だか確かに存在している。
何が存在しているのか?も、分からないかもしれないけれど、存在とは何か?も分からないかもしれないけれど、それでもやはり「存在」しているとしか、感じようがない。
この神秘、この奇跡。
理屈では到底捉えることのできない、何か深遠なるもの。
別の方の感想で、
『私が今まで生きてきた時間を肯定されて、優しく抱きしめられたような感覚でした。』
と、おっしゃって下さった方がいます。
JIDAIのシアター作品、生活を潤すことは苦手ですけれど、人生に少しでも何かが出来たのでしたら、これ以上の幸せはありません。
あなたがもし「分からないけれど、何かが・・・」でしたら、ぜひ言葉にしてみて下さい。
言葉にしませんと、す~っと消えていってしまうかもしれません。
しっかり掴んで下さいね。