「分かる」「分からない」ってありますでしょ?
この「分かる」「分からない」って、どういうことなんでしょうね?
例えば、パントマイムの公演を観たとしまして、分かったといいますのは、
何が分かったのでしょう?
大抵の場合は、演技を通じて伝えられる「文字情報」が分かったということのような気がするんですけど、いかがですか?
ひとつひとつの演技で表される文字情報をつなげていくことで、全体のお話が文字情報として分かったということだと思うんです。
分からないという場合には、演技から文字情報が取り出せないということがありますよね。
それは、演技が拙いのか?元々文字情報を持っていない(一般的にいう抽象的な)ものなのか?ということもありますでしょうけれど、いずれにしても取り出せない。
で、全体の文字情報もうまく取り出せない。
ところで、ダンスは元々文字情報を持たないものですから、取り出せるとか取り出せないを、観る側は基本的には問題にはしていませんし、
演劇の場合は、セリフという形で文字情報をふんだんに提供してくれますから、まず取り出すことが出来ますね。
それに対しましてパントマイムの場合、文字情報を持った動きを無言で行うことがほとんどなわけですから、それを取り出せるかどうかは重要なことになります。
なりますけれど、では、本当に文字情報をすくい上げられることが、「分かった」ことになるのかしら?
文字情報をセリフで伝える演劇ですけれど、文字情報を伝えることが目的ということはあり得ないと思うんですよ。
その向こう側にあるもの、何かは分かりませんけれど、文字情報では伝えられないものを伝えようとしているはずですよね。
まぁ、例えば、単純に「愛している」というのは文字情報ですけど、セリフとしての生命を与えるのは、息遣いであったり、間(ま)であったりしますでしょ?
「愛している」という文字情報を分かることが、「分かる」ことではないはずですよね。
ところが、どうもパントマイムの場合ですと、このような「愛している」という文字情報を分かることが、「分かる」ことになってしまっているようなんです。
これは演じ手も観る側もでして、一番いい例がマイムウォーク。
「歩いています」という文字情報を与え、受け取っているに過ぎない。
何が「分かった」のでしょう???
蝶が飛んでいます。木が枯れました。赤ちゃんをだっこしています。狭いところにいます。ドアを開けました・・・
何が「分かった」のでしょう???
文字情報で完結されるものを与え、受け取ることでパントマイムが成り立つのだとしましたら、
それは表現ではなく、変わった物珍しい奇術みたいなものです。
奇術を見せる(魅せる?)ために、物語性のあるものにした過ぎず、
依然として大事なのは「術」であるということに変わりはないと思うんですよ。
とはいえ、まぁ、この辺は難しいですね。。。
「術」と「表現」の関係は簡単ではありません。。。
それでも、やはり文字情報のやり取りではないんだということは、大事なことだと思います。
無言であることの有用性を考える必要があると思うんですよね。
う~~~ん、、、私はいつもそれで悩んでいるわけです。。。ふぅ~。。。