前回、「身体で表現する」ことと「身体が表現する」ことの違いのようなお話をしましたけれど、タレント性の強い人ですと、一見「身体が表現する」となっているような感じがします。
といいますのは、タレント性の強い人の動きといいますのは全て、その人の中から生まれてきているものですから、動きに嘘がないわけです。
見方を変えますと、その人は自分の中に持っている動きでしか動けない。動きを習う事ができないということなんです。
全てが自分流になってしまうんです。
良い悪いではありませんね。
ある時には良い方向に働くでしょうし、ある時には悪い方向に働くということに過ぎませんものね。
私なんかはタレント性がありませんから、いろいろな役を演じられるように、役者的に演技術を身に付けていっているわけですけど、こういうタレント性の強い人といいますのは、つまるところ
「自分を演じている」
ということだと思うんです。
いつでも「自分」として演じているということですから、へんな欲目、きれいな動きが出来るようになりたいなどといった思いを持たない方が、かえっていい場合が多い気がします。
(きれいな動きをしようとしている、という雰囲気やシチュエーションはきっと興味深いシーンとなるでしょうね。)
一般的にパントマイムではタレント性の強い人が、コメディ的に演じることが多く、そのほうが楽しんでもらいやすいということがあります。
タレント性が全面に出ていますと、何を演じていましてもいつでもその人なわけですから、ある意味安心感があります。親近感が生まれやすいんですね。
お笑いと通じるものがあります。
で、最初に戻りますけれど、これが「身体が表現する」といいえるのか?といいますと、私の中ではこれはまた別のこと。
私が考えるところの「身体が表現する」といいますのは、あくまで、その人ではないものを演じるということにおいてですから、どれだけ自分以外のものになれるか?が大事なわけです。
似ているようで、全く違うことなんですね。
タレント性の強い人の場合、自分の心(役柄の心ではなく)と身体はいつでも一致していますけれど、「身体が表現する」となるためには、自分の心と身体を別々に扱える必要があるんです。
もう少し分りやすく言いますと、身体を自分の身体としてではなく、自分からは切り離された道具として操作し、そこに役柄の心の色がついているということ。
その人ではなく、別人のようであること。
なんだか難しそうに聞こえます?
自分はどちらのタイプになり得るのか?
大事な視点のようですね。
ただ、やはり完全に切り離せるものではありませんね。
「身体が表現する」という形でいきながら、それでもその人の生来のタレント性が出てきてしまいます。
そしてそれこそが、癖でもなく、表面的な他人との違いという個性でもなく、本当の個性なのではないかと思うんです。
それにですね、もともと強いタレント性を持ちながらも、「身体が」の技術が身に付いてきますと、それはとんでもない!境地に達しそうですよね。
それは
その人であるのに、その人ではなく、
その人ではないのに、その人である。
圧倒的。。。
さて、タレント性の無い私は、こつこつやっていきますわ。