私は表現力(演技力)というものを基本的に技術だと思っています。
つまり練習の出来るものということ。
けれど、その技術を超えなければ本当の表現としての力を発揮出来ない、
ということも確かだと思っています。
表現というものは内面の現れであるから、技術として小細工をしてはいけないという考えはあると思うんです。それはそうだと思います。
表現した気になってしまうというのは問題でしょう。
しかしやはり、だからといって技術として学ばないということではないと思うんです。
演技というのは自然体でいることが大事だという人もいると思うんです。自然体でいれば出来る人もいるでしょう。
(先日そんな話がクラスで出ました。)
でもそれは、例えば、バットの持ち方もままならない人に、
「来た球を打てばいいんだよ。」
「そのためには自然体でいることだよ。」
と言ってるようなものだと思うんです。
それが出来たら苦労しないわけで・・・
それに仮に出来たとしましてもどれくらい威力のある打球を打てるかは分りませんし、
当たる確率だって100%ではないわけですから、
自然体でいることが大事だというのは、
やはり技術を身につけた先にあることだと思うんです。
もし仮に技術として学ばないことを選択したとしましても、
例えば作品に出る度に培うものが、結局積み重なっていくわけで、
いくら毎回真っ白な気持ちで臨んだとしても、
その時々で良しとした表現が身体の記憶として残ってしまいますから、
それは逃げられないと思うんです。
それは本人が技術として認識していないだけで、やはり技術なんではないかと思うんですね。
ですから、下手をしますと、悪いクセが染み付いてしまうかもしれません。
さらに問題なのは、日常では味わうことのない感情の表現となった場合、
自然体でいてどうにかなるのか?私には今のところ分りません。どうしようもないと思うんです。
日常で、そんなドラマチックな感情を味わうことってそうあるものではありませんでしょ?
いくら嬉しいといっても、言葉を失って涙が自然にぽろぽろ流れてくるようなことってそうそうあるものではないと思いますし、
あるいは、愛している人を失う怖さからその人を殺して、
その死体を前にして自分だけのものになった悦びを感じるって、
経験したことあります?
まだ他にも問題はありますし、やはり技術として身につけることを私は勧めたいと思います。
ただ、私のいう表現の技術といいますのは、言葉を変えていいますと、
「自然体の底上げ」
となるのかもしれません。
最初に「技術を超えなければ本当の表現としての力を発揮出来ない」と申しましたけれど、
さまざま内面状態を技術として作れるようにすることで、
もっともニュートラルな状態とそこからの変化の具合や程度といったものを的確に把握出来るようになりますから、
自分の演技が技術にとどまっているのか、それを超えているのかがよく分るようになるんです。
(もちろん、技術内にとどまっていましても、一般の方には分らないくらいの表現は出来ているわけですし、そうでなければ技術とは言えませんものね。)
オーガニックマイムで取り入れている『エモーショナル・ボディワーク』というのが、その技術のひとつになるわけです。
あくまでひとつではありますけれど、『エモーショナル・ボディワーク』の詳細は
こちらを参照下さい。
表現力に興味のある方はぜひ、次回ワークショップに参加されてはいかがでしょうか?
(宣伝させて下さいね。)
非日常的な感情を体感するってとってもワクワクする楽しい経験ですし、
自分の心と身体の繋がりを体感するのも、やっぱり心躍るものですよ。
大きな変換点にしていただければと思います。
“マイムから心と身体の平和を”
マイムから心と身体の平和を http://www.geocities.jp/mime_jidai/
JIDAIメソッド http://jidai.mond.jp/