オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

「我思う」「我認知する」〜演劇・舞踏・アートマイム〜

思いつきですけれど・・・
 
 
演劇は我思う、ゆえに我ありの立場で、我思う、ゆえに我ありのまま表現している。
 
舞踏は「我認知する、ゆえに我あり」の立場で、「我認知する、ゆえに我あり」のまま表現している。
 
アートマイムは「我認知する、ゆえに我あり」の立場で、我思う、ゆえに我ありとして表現している。
 
 
 
 
我思う、ゆえに我あり」というのは、どことなく体を不要としているように思うんです。
 
そして、思っている、考えている自分・・・能動性に着目しています。
 
 
で、ちょっと違和感を覚えまして、勝手な言葉を作ってみたんです。
 
「我認知する、ゆえに我あり」
 
 
これは、体ありきで、受動性に着目したわけです。
 
 
 
 
まぁ、「我思う、ゆえに我あり」も「我認知する、ゆえに我あり」も、
厳密には同じだよと言われてしまうかもしれませんけど、
イメージとして伝わればなぁと思って、お話進めていきますね。
 
 
 
私たちの多くは、「我思う、ゆえに我あり」の世界で生きているように、
思ってしまってるんだと思うんです。
 
つまり、「私」が考える。「私」が感じる。「私」が◯◯するの世界ですね。
 
 
 
けれど、実は、そう考えてしまったのが「私」。そう感じてしまったのが「私」。
 
 
ではないかと、私なんかは思うんです。(おいおい、「我思う、ゆえに我あり」か?笑)
 
 
 
 
仏教(仏陀の言葉)に「行為はあるが、行為者はいない」というのがあるそうですけれど、
そんな感じですね。
 
 
 
「私が在る」を前提とするのか、


「私は無い」を前提とするのか、
 
 
 
だと思うんです。
 
 
 
 
で、私たちの日常の感覚としましては、「私が在る」わけで、「我思う、ゆえに我あり」です。
 
それをそのまま行なっているのが、演劇なのかな?と。
 
各演目のテーマとかではなく、演劇の在り方として。
 
 
 
これに対しまして、舞踏は「私は無い」のだと思うんです。
「私は無い」をそのまま行なっている。
 
 
私たちの日常の感覚としましては「私が在る」けれど、
深遠なところでは「私は無い」を知っているように思います。
 
 
なので、私たちは「私は無い」舞踏を受け入れられるし、
同時に怖さ(畏れ)を感じるのかもしれません。
 
 
 
最後に、肝心のアートマイム、オーガニックマイムですが、
このマイムがどうにも人に説明しづらい原因がここにあるのだと思います。
 
 
「私は無い」を「私が在る」ように行なっている。
 
 
このマイムは、舞踏とも、演劇とも通じるものがあると、よく言われます。
と同時に、そのいずれでもない。
 
それが、ここにあったというわけです。
 
 
 
演劇は、
我思う、ゆえに我あり」をそのまま表現する。
そのため、表現者の内面を情報として、観客に届けることを重視します。
 
 
舞踏は、
「我認知する、ゆえに我あり」をそのまま表現している。
そのため、表現者の内面を情報として届けることを避けます。
 
アートマイム、オーガニックマイムは、
「我認知する、ゆえに我あり」を「我思う、ゆえに我あり」として表現している。
そのため、表現者の内面を、”まるで情報かのように”届けるのです。
 
 
つまり、アートマイム、オーガニックマイムは、
 
日常感覚を誘い水に、深遠な感覚へと導こうとする表現形態
 
といえるのではないか?
 
 
 
もしかしたら、「能」に近いのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
   4月16日 『声(音)を体に響かせる〜身体感覚を磨く 第4回』

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