言語による論理思考の優秀な人間ほどしばしば、「かたち」を見ていない。
「なるほど、つまりこういうことだ」と言語化したとたんに、そのものを見なくなる。
これは人の認知の構造と関わると思われる。
(工学部でスケッチの授業をしていて気がついたこと。)
これは、動作に対しても同じだと思いました。
いやぁ、あらゆるものに対していえるかもしれませんよね。
言葉にするということは、何かを切り捨てるということだと思うんですね。
言葉って、デジタルなんだと思うんです。
何を言っているのか分らないようなものは、言葉とはいえませんよね。
言葉というのは、明確に文字に出来るものなんじゃないかな?と。
何を言っているかが分るということは、何を言っていないかが分るということですものね。
持たせたくない意味の切り捨てがはっきりしているほど、その言葉は情報として輪郭がはっきりするわけですから、認識度も高まる(ような気がする)。
(ずいぶん前の記憶ですけど)ワインソムリエの田崎信也氏が
「ワインの味や香りを識別していくためには、とにかく言葉にすることだ。」
みたいなことを言われていたんですね。
つまり、印象を印象のまま記憶するのは難しい。
言葉にすることで、印象の輪郭をはっきりさせるということなんだと思うんです。
言葉にするという行為は、一旦、感覚の世界から離れて(外部との接触から離れて)、
脳の中に入り込む作業だと思うので、言語化出来てしまいますと、
もう感覚の世界に行かなくても脳の中で完結出来てしまうのかな?と思います。
よくいう「分った気になる」とうのは、そういうこととなのではないかと思うんです。
ですから、言葉に出来てしまうということは、山中氏の言われる、
「かたち」を見なくなってしまう
ことに足を突っ込むようなものなのかもしれません。
自分の中で閉じてしまう。
(ソムリエの方などは、その言語化が私たち一般の人に比べてはるかに精査で、
再び感覚の世界に戻れるような言葉を選び出しているのでしょうね。)
と、そんな感じで、動作を見る時でも、言語化をしていきますと、
見ているようで目を閉じたようになってしまうのだと思います。
静止したものでもかなりの情報量で、正確に見ることは難しいであろうに
(山中氏のように見るって、どんな感じなんでしょうね?)、
動いているものが持つ情報量を考えますと、
とてつもない量の切り捨てを行いませんと言葉には出来ないはずですよね。
しかも、その切り捨てに気がつかなくなってしまう。
(もし、切り捨てに気がついているなら、明確に言語化出来ないもどかしさを感じると思うんです。)
まぁ、それでも教える側にしましても教わる側にしましても、言葉抜きには難しいですよね。
(日本のかつての師弟関係のように、何も教えないというのは、最強の教えかもしれないなぁとは思うんですけど・・・それで「代々木公園稽古会」では教えないようにしてるんです~。)
お互いがソムリエのように言葉を使いこなせれば、また違ってくるんでしょうけど、
そうなるには、言葉にできない部分を身体が理解している必要がありますからねぇ・・・
なんだか、まとまりの無い話になってしまいました。
私自身、言語化が苦手で(だからといって感覚が優れているといわけでは、全くないのが残念。。。)こんな文章ひとつ書くのに、どれだけの時間が・・・あぁ。。。
来年も、お付き合い下さいませ。