将来の夢とか、希望ではなく、寝ている時の夢・・・
私たちは夢を見なくてはいけないと思うんです。
それも、起きていながら。
夢は潜在意識を浮かび上がらせてくれるものだと思うんですね。
しかも、夢って「見る」という言い方をしますけれど、実際には「体験」しているわけで、目さえ覚めなければ、現実なわけです。
朝起きた時に、覚えているかどうかは別としても、必ず夢は見ているといいます。
意志の力で夢を見ないでいるというのは、きっと難しいんでしょうね。
自分が本当に感じていることを、抑え込みきることはできないのでしょう。
裏を返せば、夢を見ることはそれだけ必要なのだと思うんです。
それは夢を見ることで、肉体ではなく精神、心が少しでも健康に生きていくためのバランスをとっているのではないかと思うんですね。
心のホメオスタシスとでもいいましょうか?
だからなんでしょうか、夢で見るものは、基本的に具体的ですよね。物語性があります。
何かしらを把握するためには、物語性が必要なのでしょう。
私たちは物語の中を生きていますし、物語から外れて生きていくことは難しいのだと思います。
つまり、常に点と点の結びつきに対する理解・共感を渇望していて、例えば、抽象芸術を目の前にすると、必死にその中に意味・物語性を探し出そうとしてしまうように、たとえ潜在意識であろうと物語性無くしては、抽象的で掴みどころのないものでは、浮かび上がってくる意味が無いんでしょうね。
で、ここからが重要なのですけれど、
マイム作品が最も力を発揮するのは、このような夢を舞台上に再現する、つまり観客にとっての潜在意識を舞台上に立ち上げること(とき)、
だと私は考えているんです。
繰り返しのようになりますけれど、夢のような舞台ということではありません。
観客それぞれが自分の潜在意識を見ているような舞台ということです。
そこでは物語性のために、演者個々の演技は具体的でありながら、ジェスチャーとして理解してもらうことを目的とするのではなく、理解は前提として観客との身体の共鳴という、感じてもらうことを目的とすることが必要となります。
また、作品としては物語性を持ちつつも、ストーリーに依らない(ストーリーを超えた)構成にしていくことが求められると思うのです。
夢の中で私たちは具体的な体験をしています。一見、つじつまの合っていないことも疑問を挟まず、受け入れ理解しています。全てを分っています。
それでも、夢から覚めたとき、何だったんだろう?と振り返ります。
それが出来るのがマイムだと思うんです。
(まぁ、潜在意識を舞台上に立ち上げるだなんて、一般的なパントマイムとは全く違う方向性ではありますけれど・・・)
さて、起きていながら夢を見る・・・自分の潜在意識にアクセスする・・・
もしかしたら、自分の中の闇を見ることになるかもしれません。あるいは自分の中に聖なるもの、純なるものを見つけることになるかもしれません。
心のホメオスタシスのためにも、起きていながら夢を見てもらえたらなと思っています。
参考までに、マイム作品をご覧いただいた方の感想を。