大自然を舞台に、例えば、巨大な岩の上で、あるいは美しい湖を背に、
マイムをしたらいいんじゃないか?すごく合うと思うと言われることがあるんです。
おそらく、私たちのマイムが舞踏に近い感じがするからだと思うんですけど、
私はそうは思わないんですね。
確かに、舞踏はそういった場が似合いそうですよね。
舞踏に限らず、踊りそのものが、そういった性質を持っているように思います。
以前、舞踏をしている人と話をした際、舞踏で大事にしているのは
世界の中に、どう居るか?
だと。
その人の個人的な考えかもしれませんけれど、なるほどなぁと思ったんです。
ここでいう世界といいますのは、踊っている空間ということなんですけど、
例えば、劇場と野外とでは違う空間といったようなことですね。
大自然という中で、どう居るかが踊りになるのでしょう。
で、思ったんです。
マイムの場合・・・これも、私の個人的な考えかもしれませんけど、
世界を、どう創るか?
なんですね。
つまり、
自分が演じる空間を、どのような世界として提示したいのかが、非常に重要なんです。
そしてその世界は、変幻自在にといいますか、いろいろに変化させたいわけです。
私の場合、具体的な場所、シチュエーションが分かるような場面であったり、登場人物の心の中であったり、もっと抽象的な空間であったり・・・
そうしますと、現実には何も無い空間が一番いいんですね。
自然を舞台にというのは、邪魔になってしまうんです。
自然は、あまりに力が強過ぎます。
観る人は、どうしたって、そこに意味を見てしまいます。
同じ演目でも、太陽がさんさんと照っている時と、曇りとでも、違ってきますでしょ?
ところで、小説で読んだものを映像で見てがっかりすることって、多いと思うんですね。
本の時は、想像力が強く働くけれど、映像では限定されてしまう。
マイムは、何もないからこそ、最も豊かである。
私はそう思うんです。
マイムが舞台に何の装置も置かない、効果音的なものも使わないのは、
観客の想像力を信じているからであり、その想像力に勝る豊かさは無いと考えるからなんです。
見えないものが見える。
聞こえない音が聞こえる。
マイムにとっては、世界をどう創るかが、最も重要なこと。
演者が何をしているかが、重要ではないんです。
演者は世界を創るためのことをしているんです。
風を起こし、雨を降らせ、陽を昇らせ、陽を沈ませ・・・
時を縮め、時を伸ばし、地獄を生み出し、天国を生み出し、卑俗な人間になり、神の視点を持ち・・・
そういった意味で、すでに世界があるという前提では、
何をしたらいいのか、正直よく分からないところがあるんですね。
私は目の前で起きていることを観て欲しいとは思っていませんで、
その目の前のことが、自分の中で起きているように感じて欲しいと思っています。
周囲の人には、よく言っているのですけど、
観ている人の潜在意識を、舞台上に浮かび上がらせる。
それがマイムの力だと思うんです。
先日、私の作・演出のアンサンブル作品『陽の射さない窓』を観た人が、こんな風に言っていました。
「”まどろみ”という言葉が浮かぶ、
そんな感覚になる表現があるのかと、びっくりした。」
眠たかったという意味ではないと信じています(笑)が、「まどろみ」は言い得て妙だと思いました。
潜在意識を現実に目の前で観た感覚だと、私は信じています。
と、まぁ、そんなわけで、実際の景色ではなく、心の中に景色を生みたいなと。
4月1日 『マイミクロスコープ 〜夜のアートマイム劇場〜』
4月5日 『表現者のための呼吸 心と身体のワークショップ』
4月16日 『声(音)を体に響かせる〜身体感覚を磨く 第4回』
Body,Mind&Spirit 本当の自分の身体は天才だ!