一見同じことでも、何を経験しようとしているのか?で、大きな違いが生まれてくるような気がします。
例えば、ランニングが流行っていますけれど、大抵はランニング自体を経験しようとしているのだと思うんですね。
ん?
当たり前???
そうですよね、当たり前ですよね。
でも、このランニング自体を経験するというのは、何を味わっているか?といえば、楽しさだったり爽快感だったりすると思うんです。
疲労感という負の気分もあるかもしれません。あるいは達成感かもしれません。
まぁ、どんなものでもいいんですけれど、ランニング自体を経験するというのは、気分を経験することだと思っていただければと思います。
けれど、同じランニングをしながらも、ランニング自体を経験するということとは別の経験もできます。
それは、ランニングしている身体を経験するということ。
ん?
何だか分らない???
そうですよね、身体を経験するなんて言葉、普通は使いませんものね。
身体を経験するといいますのは、身体を感じるということなんですけど、それは痛いなぁ、軽いなぁ、思いなぁということだけでなく、エネルギーの流れ(力の伝わるルート)や骨格のアライメント(位置関係)、動作感覚、皮膚(的)感覚などに目を向けるということなんです。空間感覚も含めていいかな?と思います。
もちろん、こういったことはランニング自体を経験している時も、経験はしています。
それでも、どちらの経験に焦点を当てているか?意識をより多く向けているか?
それによって、はたからの見た目には同じランニングであっても、その人自身の中では全く違った経験をすることになりますよね。
ランニング自体を経験するというのは、外に目を向ける行為で、身体を経験するというのは内に目を向ける行為といった感じでしょうか?
ランニング自体の経験に焦点を当てている(目的としている)人は、音楽を聞きながらとか景色を楽しみながら走れます。
一方、身体を経験しようという人にとって、音楽や景色は関係無いんですね。気にならなくなってしまいますから。むしろ、邪魔な時さえある。
ところで、例えば踊りのようなものの場合、始めたばかりですと、当然出来ない事だらけですから、身体を経験する比重は増えますよね。それは、意識的に身体を経験することとはちょっと違いますけれど、踊り自体を経験するには、ある程度身につきませんと難しいですものね。
その点、ランニングは基本的には今さら身体を経験する必要はほとんどないですよね。(ですから、誰でも気軽に始められます。)
これは見方を変えますと、身体を経験をする必要性を感じないからこそ、それ自体、つまりランニング自体、踊り自体を経験できる。
これは良し悪しではなく、そういうものということですし、どちらか一方だけの経験に偏るということも少ないと思います。
ただ、私が思いますのは、身体を経験することが薄れてきますと、身体に良いつもりでやっていることで、かえって身体を壊してしまったり、スキルアップできなくなったりしてしまうと思うんですね。
それとももうひとつ、自分の専門分野に活かすために別のことをするとして、そのとき身体の経験を上手く出来ませんと、ただ別のことをしたに過ぎなくなってしまいますよね。
例えば、基礎トレーニングみたいな感じでランニングをするとしまして、ランニング自体を経験してしまいますと単に足腰が鍛えられる、持久力がつく、心肺機能が鍛えられるといったことだけになってしまいます。それが目的でしたら、それでいいんですけど、身体を経験することに目を向けますと、専門分野自体のスキルがアップすることは間違いないんです。(体力向上ではないですよ!)
それは、どんな分野でもです。
もちろん、パントマイムもです。
パントマイムがランニングで上手になるって、何だか変な感じがするかもしれませんよね。
私はランナーではないですから、ランニング自体を楽しみたいということはあまりありませんけれど、身体を経験するためにランニングを使ったりするんですね。
ですから、はたから見ると普通のランニングだったとしましても、私にはマイムの技術練習なんですね。
(マイムといいますか、もっと根本的な身体の使い方ですけれど。)
今回のお話は、何を今さらという人と、もうひとつ掴みきれない人といると思います。
身体を経験するって、慣れませんと雲を掴むような感じかもしれませんけど、私のクラスには、マイムをやっていて一番役立ったのが出産の時だった(!)という女性がいるくらいですし、本当に楽しい世界だと思いますよ。
しかも、オーガニックマイムは身体だけでなく感情まで経験しますし。
話がまた長くなってしまいました。。。
また次回。