「内面の運動が身体の運動として現れる」
ひと言では分りづらいかもしれませんけれど、オーガニックマイムにおきましてはこれが非常に重要なポイントでして、単なる身体運動でないことはもちろん、身体運動をしながら演技することとも、根本的に異なるんですね。
最近いくつかツイートしているのですが、
「想いをこめて動くのは簡単だけれど、想いが届くように動くのは容易ではない。」
これが結局は表現の説得力にかかわってくると思うんですね。
演技や内面の表現というものを、想いを強く持つことだけで解決しようとするのは、とても難しいことですし、
「何を喋るか?よりも、何を喋らないか? 口を閉じるのは簡単ですけど、身体は大抵、しゃべり過ぎ。」
とツイートしましたように、身体って自分の意識していていないことを、たくさん語ってしまうんですよね。
ですから、想いを強く持てたとしましても、身体はその想いとは全く無関係なことまで同時に語ってしいまして、それを消す作業も必要だと思うんです。
「舞台で余計なセリフは言わないもの。知らずに独り言を口にすることもない。けれど、身体は余計なことを喋ったり、独り言のように、観客に伝える意図を持たない動き・形をしていませんか?自分の身体は、自分の想いとは一致していないもの。」
ということなんです。
言葉は口にしているかどうか、自分で分りますでしょ?何か病や疾患でもない限り、自分がどんな言葉を発しているかは分りますものね。
けれど、身体が語っているものは、無自覚なものが多いんですね。
演じる側としましては、テレビのように顔のアップが多いものは、あまり気にしなくてもいいのかもしれませんけど、舞台のように常に全身をさらす場では、手先足先まで全てが、何かしら語っていることになりますから、それに対して無意識でいるということは、つまり、舞台で無関係な独り言を大声で喋っているようなものなんですね。
では、身体はどうすればいいのか?
「想いがあっても、身体に現れなければ、無いのと同じ。身体が動いても、想いがなければ、ただの運動。」
冒頭に書きましたけれど、身体運動をしながら演技することというのは、このことなんですね。
いくら身体を動かしましても、そこに想いとの繋がりがなければ、ただの運動に過ぎません。
例えば、気をつけなくてはいけないのが、バレエのように身体運動訓練を積みますと、内面と身体がバラバラになりやすいんですね。どうしても形に意識がいってしまうんです。(身に付けた動きから外れるのが怖いですし、といって、形を崩し過ぎてはいけないですから、お芝居の演技とは違った苦労があるんですね。)
踊りでなくても、身振り手振りを大きくするというのも、同じことでして、単に動作を大きくするというのは、想いの強さからではないですから、それはただの運動に過ぎなくなってしまいます。
そして、「想いがあっても、身体に現れなければ、無いのと同じ」なんですけど、「想いをこめて動くのは簡単」ですから、ついついこれをやってしまうんですね。
つまり、頭で想いをイメージしてただの運動をしてしまう。
こうなりますと、「気持ちは分るんだけど・・・」ということになってしまうんですね。
「想いが届くように動くのは容易ではない」んです。
・・・なんて、偉そうなことを散々お話してきましたけれど、これは私自身も常に気をつけなければいけないこと。
私、もともと人前で演技するなんて、「とんでもない!」という人間でしたし、ある意味今でもそれは変わりません。
それに、パントマイムも単に技術的な面白さで始めていますから、想いが届くような動作というのは、至難の技だったんですね。
「内面の運動が身体の運動として現れる」ということの難しさ、大切さを痛感しています。
けれど、だからこそ、そういったことを天性の才能任せではなく、学べる術(すべ)として、お伝えしたいと思っているんです。
そして、これがアートマイムであり、オーガニックマイムなんです。
アートマイムはパントマイムの人のためだけではなく、全ての人のために開かれています。
遠慮なく、恐れることなく、入ってきていただければと思います。