何か神秘性を感じさせる武術的な技に、憧れを持つというのは自然なことだと思うんです。
けれど、自分がそれを出来るようになりたいと思ったら、神秘にしてしまってはいけませんよね。
神秘にしてしまった時点で、「永遠に手が届かないもの」になってしまいますものね。
表現も同じ。
素晴らしい表現力に憧れを持っても、決して神秘にしてしまってはいけない。
格闘技や武術などの技は、相手に有効に働いていればいいわけで、
自分が有効だと思えるかどうか(実感)は関係ありませんよね?
それが技術。
その磨かれた技術が、結果として他人からは神秘的に見えるだけ。
神秘性に目が向き過ぎてしまいますと、技術として修練していくという考えが、
どこかへ行ってしまいまいます。
何か精神的な鍛錬を積めば、出来るようになるのでは?
といった具合ですね。
(精神的な鍛錬が必要ないということではありませんよ。)
表現でも、格闘技や武術などと同じように、
自分が有効だと思えるかどうか(実感)は関係ありません。
相手(観客)に有効に働いていればいい・・・といいますか、そうでなければ困りますよね?
そして、表現でも精神的な鍛錬のようなものは必要とは思いますけれど、
やはりベースは技術です。
表現のことになりますと、技術という言葉にアレルギー反応を起こす人が多いと思うんですけど、
それは小手先の技術であれば、当然ですよね。
私のいう技術といいますのは、
偶然に頼らず再現できるもので、
且つ、
世間でいう技術と感じさせないもの。
それは、調子が良くない時でも、気分や集中力に左右されず、調子が良いと思われるような、
気分が乗っていると思われるような、集中度が高いと思われるような、
きちんとした結果が出せるということ。
なぜ、私が技術、技術というのか?
それは、私自身が初めから今のような表現力を持っていたわけではないからなんです。
天性のものではなく、後天的に意識的に身につけてきたものだからなんです。
もともと何か違うオーラをまとったような人っていますでしょ?
けれど、私なんかは昔、
よくマネージャーに間違えられたものです(笑)
とても表現する側の人間には見えなかったわけです。
で、実際、たいした表現力ではありませんでした。
かといって、思いを強く持つことで表現力を上げるなんていうことには違和感があり・・・
それは、よくあるポジティブシンキングと同じでして、一見、有効のように思えますけど、
実は、心の奥のネガティブなところが表に出ないようにと圧縮することになり、
かえってネガティブなもののエネルギーが高まってしまう。
同じですね。
自分に嘘をつきたくないじゃないですか?
さて、表現力向上を目指していながら、
漠然と、誰それさんみたいになりたいと思っているだけであったり、
思いを強く持つことや、気持ちを絞り出すことばかりに目を向けているのは、
実は、
表現力向上ではなく、
”向上を目指している自分”
が大事になってしまっているのではないか
と思うんです。
格闘技や武術で、いくら憧れの人を思い描いても、その人と同じ闘い方はできませんし、
必要もない。といいますか、むしろ良くないことですよね。
だからといって、その人の技術を学ばなくていいということにはなりません。
同じ身体ではないから 同じようにはできない、というのはどうかと思うんです。
理に適っているものは、積極的に学んだほうがいいのではないでしょうか?
(理を見ないで同じようになろうとするのは、最悪です。。。)
大事なのは同じになることではなく、「理」です。
それが私のいう「技術」ですね。
同じになることを恐れて、
「理」を見られないのだとしたら、「技術」を学ばないのだとしたら、
不世出の天才になるしかない。
そんな気がします。
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