感情はスイーツ!
そう思うんです。
のっけから、訳の分からないことを言ってしまいましたか(笑)
本気なんですよ。
スイーツが嫌いな方は、お酒でも何でも、ないと寂しい、ついいくらでもいってしまうようなもので、置き換えて下さい。
感情は、
ポジティブであるかネガティブであるかとは関係なく、
甘〜い。
そう思うんです。
官能的と言ってもいいかもしれません。
私たちをとろけさせてくれる。
それはエゴにとっての悦び。
世の中的には、ポジティブな感情を味わうことは良いことで、
ネガティブな感情にはあまり浸らないように、といわれます。
けれど、感情というものを冷静に観察し体感しますと、ポジティブ・ネガティブというのは、
単に社会的に決められた評価であって、感情そのものにそういった価値が絶対的なものとして、
くっついているわけではありません。
感情というものはポジティブ・ネガティブ関係なく、
「わたし」という存在を強固なものにする、
とても大きなエネルギーなんです。
笑いを求めて、驚きを求めて、涙できることを求めて、怒りを爆発させることを求めて・・・
だれもが、そうやって、どこかへ出かけたり、何かを買ったりしますね。
何も起きない、ただただ平穏無事というのは、意外に耐えられないものなんです。
そもそも、生きるというのは変化し続けることですから、変化の波が穏やか過ぎると、
大きな波、刺激が欲しくなります。
怒っていないと生きてる感じがしない人、
何かにつけて悲しみを覚えることが、生きるエネルギーになっている人、
自己卑下こそが自分の存在価値を高めることになってしまっている人・・・
本人の自覚とは別に、ネガティブな感情ができるだけ大きく動いてくれたほうが、
生きてる実感を味わえる。
一見、おかしな話に聞こえるかもしれませんけれど、
だからこそ、そういう人には、他の人にはあり得ないような出来事が、次から次へと襲いかかる。
潜在的に望んでいるんですから。
だからといって、ポジティブな感情であればいいのか?といいますと、
そうとは言えないと思うんですよ。
波の頂点の高さ(ポジティブ)と、底の低さ(ネガティブ)は、ワンセット。
どちらか一方だけを手にすることは、不可能。
そして、感情をどうしてスイーツに喩えたかといいますと、
甘いものには、中毒性があるからです。
スイーツ好きの私に言われたくない?
スイーツ好きな私だから、よく分かるんです(笑)
ポジティブであろうとネガティブであろうと、刺激であることに変わりありません。
では、何のための刺激か?
それは、
最初にも言いましたけれど、「わたし」という存在を確かなものにするため。
「わたし」というのは、絶対的なものとして存在するわけではなく、あくまで相対的な存在。
何かに反応することで、存在しているように感じているだけ。
何にも反応しない自分を想像したとき、自分は生きているといえるでしょうか??
自分が生きていることを確かめるために、
感情を動かしてくれる出来事を、いつも探しているんですね。
感情を燃料として、生きている。
「わたし」という幻想と戦う武器。
感情の刺激の大きさを求めることに、際限がなくなる。
より強い刺激、より多くの刺激・・・
感情という刺激に翻弄されてこその、人生・・・
感情に翻弄されてしまう人ほど、口では翻弄されたくないと言う・・・
感情がポジティブであろうとネガティブであろうと、中毒性のある刺激は、ただただストレス。
ストレスを解消する(ごまかす)ために、別の感情や、より大きな刺激を求める。
中毒は、自分を壊すだけ。
けれど、感情は燃料に過ぎないと分かれば、どんな感情も楽しめる。
・・・楽しむというと、ポジティブ感情のようですね。
味わえる、ですね。
私は、こういったことを、マイムから学びました。
アートマイム、オーガニックマイムは“人間”を表現するわけですけれど、
それは、すなわち、感情を始めとする様々な反応を表現するということ。
ですから、
マイムをするというのは、“人間”あるいは“命”を、再体験・再創造することなんですね。
マイムは、何も無いところから、全てを生み出すわけですけれど、
それは、反応を作り出すこととイコール。
何が見えても、何が起こっても、それ自体に意味はない。
どう反応するか?
それだけが、唯一、意味あるものを生み出す力。
それを、マイムは教えてくれました。
自分の反応が、全てを生み出している。