きれいな立ち居振る舞い、きれいな動作…
踊りなど身体表現に携わっていない人でも、
きれいに動こうと、
意識したことあると思います。
けれど、多くの人がきれいに動けませんね。
踊りを長年やっている人でも、難しいですし、
日常的な動作できれいにというのは、
ある意味、さらに難しいですね。
どうして?
答えは、いたってシンプルです。
ここでは、心の問題は横に置いておきます。
ただただ、身体のこととして考えていただきたいのですが、
自分がどうして、きれいな動作にならないのか?
それは…
嘘の動きだから!
強烈な答えですね(笑)
おだやかな言い回しにしましょう。
借り物の動きをしようとしているからなんです。
自分の動きではないからなんです。
自分の動きではないって、
きれいにしようとしているんだから、当たり前じゃない?
って、思われると思うんですけど、
簡単に言いますと、
正解を外見に求めている点で、
それは嘘の動き、自分の動きにはなり得ないということなんです。
きれいそうに見えるだけで、決してきれいにはならない。
(「きれい」ではなく「美しい」という言葉のほうが、より正確だとは思います。)
では、自分の動きってなんでしょう?
私は、エネルギーの通りがキーだと考えています。
例えば、歩き方。
モデルのように歩こうと、武術家のように歩こうと、
チンピラのように歩こうと、
(チンピラのように歩くって、意外に難しいんですよ 笑)
外見は関係ありません。
それぞれの外見で、全身…あたまの先から、手先足先まで、
エネルギーの流れがどれだけスムーズか?
身体の深部からエネルギーが動いているか?
重力や慣性力が活かされているか?
(慣性力…一度、動き出したものは、慣性の法則に則って、急に方向を変えたりなど出来ない)
これらは、外見から修正しようとしても
決して修正しきれないことは、容易に想像がつくと思います。
つまり、
きれいに動こうとして、
きれいな外見を気にしている限りは、
決して、きれいになれないということなんです。
めんどくさい?
はい!
めんどくさいと思います。(笑)
簡単に手に入れられる「きれい」は「きれいそう」止まりです。
それでいい人は、それでいいと思います。
インスタント食品だって、十分おいしいのと同じ。
けれど、素材から丁寧に調理した料理とは違うおいしさであることは、
自覚が必要だと思います。
一方、本当の「きれい」をめんどくさい?思いをして手に入れることは
素材から丁寧に調理していくのに似た
楽しさがあると思うんですよ。
いい素材を選んで、切れ味のいい包丁を使い、火入れのタイミングを図り…
出来上がった料理のおいしさだけでなく、
調理の過程自体が楽しい!
めんどくさいからこそ、楽しいわけですね。(笑)
きれいな立ち居振る舞い、きれいな動作…
エネルギーの通りに目を向けて、手に入れる過程の楽しさと
手に入る本当の「きれい」と、
全てを楽しみませんか?