音は、
目で見ることはできませんし、
触れることもできません。
けれど、
音に、
手触り感を覚えることはできる。
だからこそ、
私は、音を出さない身体表現に、
音を見たい。
音を見せたい。
私は、どんなに凄い動きをしている表現であっても、
その人に内在している音が単調であったりしますと、
すぐに飽きてしまいます。
以前は、そんなことなかったんですけどね。
昔は、動きを、ただ動きとして見ていたからだと思うんです。
今は、意識せずとも、音を強く感じてしまう。
どうして、よくあるパントマイムがつまらないかといいますと、
音が、全くの単調だからです。
お芝居も、一部は同じことが言えます。
踊りは、まだ音楽に乗るということがありますから、
それほどではありませんが、
やはり、一部には同じことが言えます。
文章でも同じだと思うんです。
論文調のものが読みづらいのは、
内在している音が、非日常的な単調さだからです。
舞台表現でも文章でも、
最初の部分少しだけで、この先が楽しみになるかどうか?
ほぼ分かりますでしょ?
内容云々ではなく、
そこに内在する音を感じ取っていて、
その音が自分に合うかどうかは、
すぐ分かるものです。
肌に合わない音をもったものは、
最後まで、やはり合わないものです。
その表現者が持っている音の豊かさは、決まっていますから、
作品のどの部分を切り取っても、
その人の持ち得る音は、そこに、ほぼ全て現れてしまっているんですね。
経験ありませんか?
我慢して、最後まで頑張ったけれど、
やっぱりダメだった。。。って。
パントマイムでも踊りでも、身体で表現するものは、
自分がどんな動きをするか?に意識がいってしまいます。
お芝居では、セリフに意識が。
これは、ピアノにたとえるなら、
どの鍵盤を叩くかにばかり、意識が向いているようなものなんです。
その鍵盤を、どう叩いて、どんな音を出したいのか?
次の音にどうやってつなぐのか?
それらのことで、どんな効果を狙っているのか?
こういったことがないものは、つまらないんです。
もちろん、こういったことを全く意識しない表現はないですよね。
けれど、それを、どの程度大事にしているか?
ということなんです。
私がよく言っている、
「どれだけ身体を動けるようにしても、
表現力は上がらない。」
とは、つまり、
音の豊かさにつなげていない身体訓練は、
ただの運動だからです。
動ける身体を見せることと、
豊かな音を体現することとの違いですね。
凄いなぁと思われたいのか?
表現の世界に巻き込みたいのか?
その違いでもあります。
以前、舞踏家の方から、
好意的な感じと驚きをもって
「動きの引き出しが豊富ですね。」
と言われたことがあります。
私は「???」でした。
私は踊り手ではありませんから、
“動きの引き出し”という考え方で、作品を作ったことがありません。
おそらく、
音の豊かさが、“動きの引き出し”と見えたのだと思います。
同じピアノで、同じ「ド」の音を叩いても、
ピアニストと素人とでは、
全く違う音になります。
「ドレミ」と弾けば、さらに違いは大きくなりますよね。
最初の一音で、聞く気にさせるピアニストかどうか?
舞台表現も同じです。
自分の身体は、どんな音を発しているのか?
ひとりでも多くの方の心に、このお話が届くよう、
私自身、今年もその身体の在りようを、
作品に昇華させつつ皆様の前に立っていきます。
本年もどうぞ、よろしくお願い致します。