自分がどんな世界に存在しているのか?
それは、
自分がどんな視点をもっているのか?
自分が世界をどう捉えているのか?
によって、見えてきます。
自分が何者であるのか?
あなたは、知っていますか?
先日、クラス内発表会がありました。
半年に一度のペースで、6回目くらいでしょうか?
回を重ねることで、
参加者の作品づくりに対する姿勢が変わってきました。
深さを増したともいえますし、
メタな(高次の)視点に立てるようになった
ともいえます。
そのことで、これまでで最もといえるほどに、
各人の個性が浮き彫りになりました。
アートマイムは
「個性を発揮しましょう」
というスタンスのものではありません。
ただただ、“真” であることが求められる
身体演技です。
それが、作品に結晶したとき、
その人の、本人が気がついていないところまで、
丸裸になってしまうんですね。
ところで、
作品で一番重要なことは何だと思われますか?
うけること?
賞賛されること?
学んできたことが活かされること?
また見たいと思われること?
難しいことに挑戦したこと?
革新的であること?
…そうではありません。
自分にとって表現されるべきものが
表現できたかどうか?
です。
個々の作品の良し悪しは、
あくまで、この視点に立っていなければ、
評価できません。
今回の発表会は、
この視点の話が出来るようになったという意味で、
これまでで最もレベルが高かったのです。
私のクラスは、このような表現系クラスと
身体系のクラスとに分かれています。
たとえ表現系クラスに通っているからといって、
作品づくりを強要することはないのですが、
作品づくりをしていかなければ、
決して出会うことのない “自分” がいます。
そしてそれは、
巷によくある「個性の発揮」や「自分を表現」
といった表面的なものではなく、
“真” であることが求められる身体演技の
習得の深さによって、
自ずと現れてくる、
「自分がどんな世界に存在しているのか?」
「自分が何者であるのか?」
の答えとしての “自分” です。
人前での表現をするしないにかかわらず、
アートマイムでの作品づくりは
「自分を生きる」
という意味で、
非常に重要だと思うのです。
逆にいえば、
「自分を生きる」
に対する深さ、真摯さが、
身体演技に “真” が宿るかどうかになるのです。
つまり…
“自分” というものが、
前もって用意されているのではなく、
身体演技の習得の深さによって、
変わってくるのです。
再発見され続けるのです。
「自分がどんな世界に存在しているのか?」
世界は変わり得ます。
自分を表現するのではなく、
自分が存在している世界を表現する。
それがアートマイムを学ぶということです。