オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

新しい人生を

パントマイムで特徴的な、「壁」とか「綱引き」とか、人間ではないみたいに動くとか、これらは、面白いです。
特別パントマイムに興味を持っていない人でありましても、見れば、「へ~っ」くらいには思うでしょうし、ちょっとでも興味のある人でしたら、ご自分でやられると、「おっ。綱引けてる!?」って、自分で自分に驚けて、結構楽しめます。

ところが、マイムといいますのは、ここで止まっていては、実にもったいないことでして、残念ながら(残念ということもないんですけど)、私も、見よう見まねで始めてから10年くらいは、ここまでしか知りませんで、いや、むしろ、これで十分だと思っていたんです。
(それなりのテクニックは身に付いていましたしね。)
ですから、誰かに習う必要はないと。

しかしながら、今から10年程前に、まさに目からウロコが落ちるような、真のマイムとの、出会いがありまして(何が真のマイムかというのは、まあ、いろいろご意見はあろうかと、思いますが・・・)、私にとってそれは、実に衝撃的でありまして、それからなんですね、私のマイム人生が始まりましたのは。

で、思うんですけど、マイムが安っぽく見られがちなのは、マイムが安っぽいのではなく、マイムが安っぽく使われやすい、ということ。

そうなんです、私自身も含めまして、マイムが持つ真の力というものを、やる側の人間は、もっと強く認識し、その可能性を大きく広げようとしなければ、マイムは、ただのテクニックとして、ダンスやお笑い等で、テキトーに興味本位的に扱われるだけのものに、なってしまいます。

マイムは身体表現です。決して、目先のテクニックだけではないんです。
そこで、強く思いますのは、一見、特別な身体遣いをしていないような、「演技のための身体」が絶対的に、必要だということなんです。

マイムが安っぽくなってしまう理由として、この「演技のための身体が無い」ということが、非常に大きいと思うんです。

「演技のための身体」といいますのは、簡単には言い表せませんので、また別の機会に譲りますけど、この訓練をするかしないかは、非常に大きな差になります。

以前、マイムが表現形態のひとつだからこそ、身体と心を繊細に訓練出来るんだ、みたいなことを申し上げましたように、「演技」という要素が入ってきますと、それまで自分では出来ていると思っていた、身体の使い方が、実はまだまだ、な~んにも分かっていなかったんだ、ということが、否応無しに分からされてしまうんです。

つまり、この訓練をしていませんと、その人の身体といいますのは、やはりその程度のものにしかならない。
これは、私の日本舞踊の師匠も、おっしゃっていたことなんですけど、かなり踊れる名取りの弟子でも、演技色の強いものになりますと、どうにも様にならず、どうしてかと考えると、やはり身体の使い方が甘い、ということなんです。
恐ろしいことです。

けれど、見方を変えますと、この訓練をすることで、身体も心も、別の次元に入っていけるということです。
この次元に入ってきますと、これは非常に気持ちいい、といいますか、何と言いましょうか、そう、やはり宇宙に近付く・・・う~ん、今までにない生命感・生命観を得る、といったところでしょうか。

もちろん、これはいつでも私自身にとっても、課題ではありますけど、10年前に、こういう世界があるんだと知り、今こうして、その世界に少し入ってきたことで、ぜひ、多くの人に、この世界を味わってもらいたいと思うのです。
今までにない生命感・生命観。


私は、マイムが、心にとっても身体にとっても、その健康と平和に導いてくれると、信じています。