オーガニック・アートマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

カルマって、落とせるの?

「前世でやり残したことをやるために、前世のカルマを落とすために、今世に生まれてきた」って聞いたりしますけど、これも私にはよく分からないことの、ひとつですね。

前世があるとかどうとか、そういうことではありませんで、一応前世があって、生まれ変わりがあって、ということを前提としましても、やはり変だと思ってしまうんです。

以前、『わたしの疑問です。』で、このことを、挙げたのですけど、その時達成できなかったことが、ずーっと後になって達成できたとしまして、それは達成できたといえるんでしょうか?

前世でなくても、たとえば子供の時に出来なかったことが、大人になってから出来たとしまして、それは子供の時出来なかったことの、穴埋めになるんでしょうか?
ということなんですけど、どう思われます?

単純に、小学生の時に、算数のテストで50点しかとれなかったのが、中学生になって、同じ問題を100点で解答出来たところで、それがどうだというんでしょうか?
って、話が逸れていますか?

では、自転車に乗れなかったのが、乗れるようになったことは、どうなんでしょう?
まだ逸れていますか?

では、親に言われないと、何も出来なかったのが、自分からいろいろ出来るようになったとしまして、それはどうなんでしょう?
これは、だいぶ話が近付いてきたんじゃありません?

ではでは、ある人を死に追いやるようなことをしたけれど、今は人の命を救うような仕事をしている、となるとどうでしょう?
これは、かなりいい感じの例だと思うんですけど・・・

この時、死に追いやられた人の存在を無視して、その当人にとって、成長であるとか、カルマを落としたというようなことと、本当に言えるのでしょうか?

死に追いやられた人は、自らの命を犠牲にすることで、自身の前世のカルマを落とせたんだと、つまり、死に追いやられて、良かったではないかと、そういうことなんですか?

死に追いやってくれて、ありがとう。って思っているはずだ、ということですか?

思いますに、過去の出来事は、あくまでその時の出来事として、完結しているんですよ。
過去は変えられないんです。


過去に対する見方を変えることで、同じ出来事であっても、マイナスだったものを、プラスに変えることは出来ますけど、出来事そのものは、やはり変えられない。
その時点で終わっている。

後になって、修復したつもりになっても、それは、あくまで「今」の問題だと思うんです。

その時のことは、その時のことでしかなく、今どうしようと、その時のことにはなり得ないわけで、結局、「今」しかない。

その時の「今」に今の「今」。

もちろん、何も、過去の良くない行いを、改めなくてもいい、ということではありませんよ。

「今」を大事にしようとすれば、自ずと、今の行いは良いものになるはずでして、どこまでいきましても、「今」があるだけだということです。

そう、ほんとに、どこまでいきましても、「今」しかないんですよ。

過去というものも、今見ていることであり、未来にしましても、やはり今見ていることで、「今」が全てとも言えるのではないんでしょうか?

結論は、ごく当たり前のことですね。特別なことではありません。

と、最初の前世のカルマ云々のお話の、変さが分かると思うんですけど・・・

前世の問題は、あくまで前世その時の問題で、今世でどうしたか、それは「今」の問題にしか、なり得ない。

同様に、来世で今世の行いを、悔い改めようようと、どうしようと、それは今世には関係の無いこと。

「今」どう在りたいか?


これこそが、最も大事なことだと思うんですけどねえ・・・

と言って、私がどれだけ「今」を大事にしているか?・・・あららぁ~・・・