感動出来ることは、素晴らしいことだなと思ってるんですけど、
何でも感動すればいいわけでは無い、とも思ってるんですね。
絵本作家である五味太郎氏の言葉が、
哲学者である鷲田清一氏によって紹介されていました。
「大人は感動が好きで、何かといえば子どもに感動を与えたがると絵本作家は言う。
しかもその感動は類型的で代わりばえがしない。
感動とは本来、不意を襲うもの、そしてしばらくは訳の判らないもの。
ましてや前もって設定などできないもの。
自分を戸惑わせるのではなく安心させるそんな安っぽい感動の輪を拡げようとするのは何とも「気持ち悪い」と。」
私はこの中でも特に
「感動とは本来、不意を襲うもの、そしてしばらくは訳の判らないもの。」
というところに、激しく同意してしまいました。
「しばらくは訳の判らない」って、重要なことだと思うんです。
自分の味わったものを、何でもすぐに言葉にして、口にしたり
文章にしたり出来ることが大事だという風潮がありますけど、
(私にはそう感じられます)
それは、本当に感動しているの?って思ったりするんですよね。
「感動している自分」を表現することに喜びを感じているのではないのか?
そんなふうに思ったりするんです。
ひねくれてますね(笑)
本当に心動かすものって、
それが感動なのかどうかすらも分からない時があると思うんですね。
表面的に感情が動いたところで、
それは美味しいものを食べるのと同じことで、
感情が動かないよりは、はるかにいいですけれど、
それなりに動くのであれば、
むしろ下手に動かないようにした方が、いいとさえ思うんです。
そのほうが、本当に心動くものに出会えるのではないかと。
おそらく、私のここで言う「心」は人によっては「魂」と言うのかもしれませんね。
けれど、私はあまり大袈裟な物言いは好きではありません。
魂という言葉によって、何だか急に高尚なものになってしまい、
自分事感が薄くなる感じがします。
まぁ、それはいいんですけど・・・
何にでも感動出来る純粋さは尊いと思う一方で、
安易な感動は、しないほうがいいと思うわけです。
「不意を突かれ、しばらく訳の判らない状態でいる」ことに堪えられないがために、
簡単に感動してしまうのではないでしょうか?
特に「感動をありがとう」って、どうかしてます。
気持ちは分かりますけど、感動とはそういうものではないと思うのです。
訳の判らない状態でいられる強さの向こうにしか見えないものがあるような気がします。