体幹と末端(手先・足先)の関係ですけれど、
和の身体では、体幹自体の動きはなく、末端に伴って体幹全体がひと塊になって動くのが得意で、
西洋の身体では、末端に伴って、自然と体幹の動きが出てくるようになっている。
大雑把には、そんな感じではないかと考えています。
ただ、西洋の身体の「末端に伴って」と言いますのは、厳密には肩関節・股関節よりも少し先の部分であって、手先・足先といった本当の末端は、投げ出されているだけだとは思います。
(そういう意味では、末端は発砲。 『「体当たり・尻もち」文化』)
何を言っているの???
ですよね。すみません。。。
簡単に言いますと、西洋の身体では何か表現しようと手足を動かしますと、自然と体幹にも動きが出る。
一方、和の身体では、本当に手先しか動かない。(足は止まったままです。)
ということですね。
これは、言葉の発声でも同じですね。
日本語は口先での発声で、西洋の言葉は口の中での発声。
一般的に日本人は手先が器用というのは、体幹が動かずに手先だけを動かせるからではないかと思われます。
盆踊りや阿波踊りでは、それこそ、手先・足先だけをヒラヒラと動かす感じで、体幹は固定されています。
昔流行ったパラパラという踊りも手先だけ色々動かす感じで、なぜあれが踊り?という印象でした。
厳密には和の身体でも体幹自体の動きはあるのですけど、それは熟練者に限られるのだと思いますし、それでもあまり表には見えてこない動きなんです。
その末端に伴って体幹全体がひと塊になって動くのが得意な和の身体では、例えば、お盆を持って歩く際には、歩くことに意識を持たせるのではなく、お盆を先に進ませ、そのお盆について行くように歩いた方が、お盆を揺らさずに歩けます。
パンチ・突きも、下手に全身で打つよりも、スッと拳を出しながら体全体を進ませる(ある意味、体当たり)方が、強かったりします。
ところが、西洋の身体ですけれど、大リーグのピッチャーが棒立ちで腕だけで投げているような印象を持ったことがありませんか?日本人ピッチャーのように両脚を大きく開いて下半身で粘って投げるのとは、だいぶ違う印象。
あれも、実はそう見えるだけで、体幹が働き、同時に足元まで力が流れているのだと思うんです。
跳ねる身体だからこそとも言えますね。
落下する身体である和の身体では、難しい。手裏剣のように静かに、コントロール精度の高さを求めるには、都合が良いのでしょうけれど。
西洋の身体では、基本常に勝手に体幹が使われるのだと思うんです。
体幹トレーニングで人気のピラティス。元はドイツの負傷兵のためのリハビリです。
おそらく、無意識に使われている体幹の機能を取り戻すことが重要だったのではないかと思われます。
これを、体幹がそもそも使われない和の身体に取り入れても、本来の意図とは違う役割を負うことになるのだろうと、私には思えるんです。
で、それはそれとしまして、例えば、バレエでは西洋の身体では、手先が大きく見えます(重さが投げ出されているため)けれど、和の身体では、先細りに見えます。ある意味、繊細な感じです。ただ、実際の腕の短さ以上に短く見えてしまいます。
なんだか、取り止めのないお話になってしまっていますので、終わりにしますね。
体幹と末端の関係に思いを馳せるきっかけになれば幸いです。
私ももう少し考えてみます。