基礎と土台、同じようですけど、何か違いますよね?
基礎練習とは言いましても、土台練習とは言いませんものね。
少し前にSNSでこんな言葉を上げました。
「土台となるものを自分で見つけられるか?
基礎からスタートしても、その先で土台を見つけられなければ、その基礎は基礎にはなり得ない。
基礎は土台を見つけるためのヒント。
基礎より土台。
土台は応用の中にしかない。」
これ、ピン!と来ましたでしょうか?
今回は、この言葉の意味するところのお話。
そこで、改めて基礎と土台の言葉の意味を調べてみたのですけど、とても簡潔で分かりやすいものがありましたので、まずはご紹介です。
🆚【基本】 と 【基礎】 と 【土台】 はどう違いますか? | HiNative
「基本」は、骨格部分を表します。それに対して、「基礎」と「土台」はその上に他のものを積み上げるためのものです。
「基本」と「基礎」はそのままで利用されることがありますが、「土台」はそのままで利用されません。
例
パソコンの基本操作
(基本操作は慣れた人でも行う)
英会話の基礎を学ぶ
(基礎知識に他の知識を結びつける)
聞いた話を土台に、物語を作ってみた。
(聞いた話と作った物語は異なる) (引用ここまで)
基本のお話は置いておきまして、基礎と土台、全く異なりますね。
基礎は、以降の展開が積み上げ・プラスアルファである一方、土台は、以降の展開が異なるものへの変化。
以前の記事で「基礎が無くても素晴らしいことが出来る人はいます」とお話をしましたけれど、基礎が出来ているからといって、素晴らしいことが出来るかどうかは分からないですよね? 場合によりましては、「基礎は出来てるんだけどねぇ・・・」ということも。
基礎と土台の違い、私の言葉で言いますと、
基礎は他人のもの。
土台は自分のもの。
先ほどの例文「聞いた話を土台に、物語を作ってみた。」の“土台”を“基礎”に変えてみて、「聞いた話を基礎に、物語を作ってみた。」と、敢えて強引ではありますけど、してみるとどうでしょう?
“基礎”にしてしまいますと、なんだか名詞を入れ替えただけのような、同じ物語にしかならない感じがしませんか? 子どもで出来そうです。
一方、土台の方は、子どもには難しそう、大人でも難しそうですけれど、元の物語を全く感じさせないものが出てきそうですよね?
つまり、基礎の方はオリジナリティが生まれず、土台からはオリジナリティが生まれる。
基礎は他人のものであり、他人事なんです。それに何かを積み上げても元が他人のものですから、どこまで行っても他人のもの。
土台は自分のもの。自分が咀嚼した結果ですから、何をどうしていっても、揺らぎなく自分。
さて、「土台となるものを自分で見つけられるか?」「土台は応用の中にしかない。」といった私の言葉ですけれど、身体の使い方として考える前に、言語の習得について考えると分かりやすいかと思います。
文法が基礎だとしましても、普段の会話、基礎からは大きく外れたような言い回しでも通じますよね。外国語の習得で一番厄介なところではないでしょうか? 母国語としている人たちは何も考えずに(知識はなくても)間違いなく使いこなせるのに。それこそ、母国語としている人は感覚的に分かっているわけです。
その言語の土台が出来ているということだと思うんです。外国語として習得した人はどれだけ基礎がしっかりしていても土台は脆いということ。もしかしますと、母国語の人の方が基礎は脆いかもしれません。
私は身体の使い方の指導にしましても、アートマイムの指導にしましても、土台を見つけてほしいとやっているんですね。
基礎を身につけたからといえども、たいしたものは生み出せないからです。分かりやすい技術・コツを使うだけのことになってしまうからです。
基礎は技術。
土台は血肉。
大袈裟に言えば、そんな感じです。
基礎とは誰にでも共通の他人事としての技術だからこそ、習うことが出来る。
土台は自分事、自分の血肉であるからこそ土台なので、習えない。学ぶことで掴むほかない。
天才は土台の質が高いんでしょうね。
基礎がそれほど出来なくても、高いパフォーマンスを発揮出来たりすることがあるのは、そのせいかと。
私たち凡人は基礎を知り、そして知るだけでなく、応用の中に基礎を見つけることが大事で、そのことを通じて基礎が土台になっていく。
基礎は幾多の先人にとっての土台なんだと思います。
けれど、私やあなたの土台ではない。ただの基礎。
基礎的なことをやっているだけなのに、他人からはとんでもない応用に見えて、初めて土台になったということ。
そんな風に考えています。