遠心力と求心力、一方だけが生じるということはありませんよね。
クラスでは、身体の使い方を学んでもらっていますけれど、それは単にどう動くと良いか?ではなく、あくまでエネルギーを通すことを学んでもらっていまして、遠心性の力と求心性の力というものが、非常に重要になってくるんです。
これが張力ということでもあるのですが、遠心力と求心力、同時に生じるものだとはいえ、エネルギーを通すにあたりましては、その発生に優先させるべき順番があるんです。
遠心力と求心力、どちらが先に発生すると、させるべきだと思いますか?
これ、遠心力なんです。
遠心性の力を、まず優先させて働かせる!
求心性の力は、その結果として生じる。
ここを間違ってしまいますと、エネルギーを通すという身体の使い方に辿り着くのが、極めて難しくなってしまうんです。
よく、軸が大事とか、お腹が大事とか、言われていますけれど、これらが上手くいかないのは、つい、軸となる身体の中心ラインや、お腹でも丹田でも、そういったところに力を入れてしまうからなんです。
力を入れると言いますのは、ここでいう求心性の力を働かせてしまうということです。
身体の中心に求心性の力を働かせるって、なんだか良いことのように感じますでしょ?
何が悪いの? 良いことでしょ? と。
そう、ここが厄介なところでして、確かに身体の中心に求心性の力が働いてくれているのは、大事なんです。大事なんですけれど、それは遠心性の力が働いた結果として生じているからこそ、大事なんです。
もし仮に、遠心性の力がないままに、求心性の力だけを働かせたとしますと、ただギュッと力ませているだけなんです。意味のない力を入れていることになるんです。
では遠心性の力が働いていれば良いのか?ですけれど、求心性の力が遠心性の力を生み出すわけではありませんでしょ?
バケツに水を入れて、ぐるんぐるんと回して、水が落ちないという遊びをイメージしてもらいますと、分かりやすいですね。
ぐるんぐるん回すことで、つまり遠心性の力を働かせようとすることで、自分がふらつかないようにという求心性の力が必要となる。
決して、回そうとせずに、ただ単にふらつないように力を込めて立っていても、バケツは回ってくれませんでしょ?
あまりに当たり前過ぎることですね。
もし、それでも、一応、回そうとする前の段階で、ふらつないようにと力を込めて立ち、そこからバケツを振り回したとしましょう。遠心力はどうしても弱くなってしまいます。水はこぼれてしまうかもしれませんね。
と、このように、求心性の力は、(遠心性の力に対して)受け身で生じて初めて意味を持つ力なんです。
ですから、軸が大事、お腹が大事といったお話も、あくまで遠心性の力を働かせた結果として生じる求心性の力である必要があるんです。
ひと言で簡単に言いますと、膨らもうとする力が最優先ということです。
拙著『筋力を超えた張力で動く』は、このタイトルで全てを言い表わしているんです。
筋力とは、ここでいう求心性の力。
張力とは、ここでいう遠心性の力。
遠心性の力を働かせることで、受け身的に求心性の力が発生しますけれど、これは自ら能動的に積極的に働かせる求心性の力とは、似ているようで、全く違うのです。
この似ていて、けれど全く違うからこそ、その違いをしっかり掴み取る必要があるわけです。
遠心性の力をまず働かせる、膨らもうとする力をまず働かせるというのは、慣れませんと難しいと思います。
だからと言って、求心性の力をまず働かせて、という方法をとってしまいますと、どうしても力は外に向かわず、自分の内に向かってしまいます。
これが、手応えとなり、上手く出来ている気がしてしまうのですけど、生じても良い手応えは、受け身的に生じた求心力だけ。
遠心性の力は、外に向かう力ですから、手応えを感じません。遠心性の力が十分働いていても、感じられるのは、求心性の力です。
例えば、「お腹に力を入れろ」とは、身体が使えている人が言う場合と、使えていない人がいう場合とでは、意味が違うということです。
遠心性の力をまずは働かせる。
世界が変わりますよ。
アートマイム新作2本。
次回公演は12月13日(金) 大型企画です!!