人を殺すことが、一線を越えることだとしますと、この一線さえ越えなければ、何をしてもいいんでしょうかねえ?
そんなことはないのは、だれでも皆、知っているとはおもうんですけど、実際はどうなんでしょう?
一般的には、人を殺してはいけないことになっていますけど、それはあくまで、肉体的な死をいっていますよね。決して、心や精神の死についてではありませんでしょ。
けれど、人間が、生命が、この肉体のことだけを指すのでなく、心とか精神といった、目に見えないものを含んでいるのだとしますと(もちろん含んでいるんですけど)、死というものが、単に肉体的なことでないことは、明らかだと思うんです。
肉体的に殺す・傷つけることが良くないことならば、心や精神を殺す・傷つけることも、全く同等によくないことのはず。
そして、生命は生きるのが本能ですから、肉体的な死を逃れようとしますし、そのために正当防衛的に、相手を傷つけることもあるのは、認めざるを得ないところだと思うんです。
ということはつまり、心・精神が死に追いやられそうになった時(肉体的な死への恐怖ではないですよ。あくまで心・精神そのものの死)、何らかの形で、相手をもしくは誰かを、死に追いやろうとすることは、当然あっておかしくないことではないでしょうか?
この時の心・精神の正当防衛は、相手の肉体を標的にするのが、一番簡単だと思うんです。嫌なことを言われたから、ぶっちゃう、みたいな。
そんな軽いレベルの話ではありませんけど、まあ、一緒です。精神的に追い詰めるだけ追い詰めておいた相手から、核実験などによる肉体的脅威を与えられて、それはおかしいって、そんなに偉そうに言えるんでしょうかねえ?
どっちが先に相手を殺すか?
目に見えないところを、既に殺されたと思っている側からすれば、死なばもろともと、相手と一緒に肉体的な死を迎えることは、そんなに特別なことではない気がします。何しろ、もう死んでいるんですから。
見えない心・精神も、肉体も五体満足な側は、それを理不尽と思うんでしょうか?何だか勝手な気がします。
まあ、といって、有効な打開策があるわけでもないんですけど・・・ますます追い詰めるのはどうなんでしょう?