「エネルギー」という言葉、ここの記事でもクラスでもよく使いますけれど、
自分で言うのもなんですが、「エネルギー」って極めて抽象的な言葉で分かりづらい(笑)
基本的にはひとつの意味で使っているのですが、
少し分けて考えたほうが分かりやすいかもしれません。
ひとつは、肉体的な力。
もうひとつは、肉体の外におよぶ力。
肉体的な力といいますのは、肉体が生み出す力です。
(重いものを)持ち上げる。(大きな)声を出す。といったものですね。
で、エネルギーの流れを良くしましょうというのは、
無駄な筋力を使わず、主に骨を使ってということになりまして、
局所的な負担をかけずに、上手に全身を使って、
力を生み出しましょうということになります。
その際、このような単純に肉体だけで力(内力)を生み出すのではなく、
重力も利用する外力というものも、ここでは、一旦、肉体的な力としておきます。
さて、もうひとつの肉体の外におよぶ力。
これが、表現におきましては、非常に重要になってくるのですが、
多くの表現者が気がついておらず、無意識(?)に自然とできてしまう人を、
センスがあるとか、生まれ持った表現力などといって、
そこに辿り着く道は、ただただ努力しかない(どんな努力???)と思われてしまうものです。
もちろん、スポーツなどでも重要。
肉体の外におよぶ力といいますのは、
「意識のありか」といえます。
例えば、ある人が考え事をしているかどうかって、何となく分かりますでしょ?
それは、その人の意識のありかを、なんとなくでも感じ取っているからです。
格闘技などで、相手の攻撃を読むことができるのも、その人の意識のありかが分かるから。
その人の肉体そのものではなく、その外(相手)へと伝わるものがあるわけです。
これも「エネルギー」という言葉を使っているんです。
決して、テレパシーとかではありません(笑)
さて、表現者にとって、ふたつ目が重要だということは、分かりますでしょ?
相手に、何が伝わるかといいますのは、
結局、このエネルギーなわけです。
日常生活でも、この人、自分の話を聞いてないなといったことって、分かりますよね?
ということは、例えば、舞台上で、あなたがいくら気持を込めて愛しい人に手を差し出しても、
手を美しく動かすことに意識がいっていれば、
観客は「手をきれいに差し出そうとしているんだな」ということを、
真っ先に一番強いエネルギーとして受け取ってしまうんです。
バレエなんかは、それが強いですよね。
この「意識のありか」は、いくら肉体の外におよぶ力といいましても、その出処は肉体なんです。
これ、非常に重要なポイント。
なんだか、意識のありかとか、肉体の外におよぶなんていいますと、
全く目に見えないもので、肉体とは全く無関係に、
心とか意識といったものだけのことのように考えてしまいがちなのですが、
それこそが、大きな落とし穴なんです。
あくまで肉体的な変化があって、それを目で見て、感じ取っているんです。
(どこまで自覚的であるかは、関係ありませんし、
気功で人を動かすといったものは、ここでは扱いません。
なので、私は「気」という言葉は使わないのです。)
エネルギーといいますのは、肉体に起きる変化。
それも、どこに向かって、どれくらい流れるか?といったことになるんですね。
(本流と、いくつもの支流があると考えて下さい。)
目の前に欲しいものがあれば、手を伸ばしたくなったり、前のめりになる。
嫌なものであれば、手を引っ込めたくなったり、後ずさりしたくなる。
これは、それとはっきり分かるような動きが生じる前の、
いわゆる”気配”の段階こそが非常に重要でして、
そんな気配としての心と体の変化が、
肉体の外に及ぶ力としてのエネルギーの源になるんです。
そして、
気配がその後の動きにつながってこそ、
エネルギーのある動きになるのです。
ですから、目の前に欲しいものがあっても、
目の動きにも呼吸にも変化が現れなければ、エネルギーが生じたとはいえませんし、
その状態で、ただ手を伸ばしても、それはエネルギーのある動きではなく、
単に手という物体が動いたにすぎません。
日常のリアルを重視する人たちの演技で陥るところです。
また、私のいう身体運動表現や、身体演技ではない身体表現も、全てこのタイプになります。
私がひと頃、よく取り上げていました、
で、最初に戻りますが、エネルギーひとつ目としました肉体的な力、
その通りが良くない場合、つまり筋力に頼る割合が大きい場合、
どうしても、肉体の外におよぶ力としてのエネルギーが生まれづらくなってしまうんです。
それは、本人がどんなに外に意識を向けましても、体のほうは、つまり無意識レベルでは、
自分の肉体(筋肉)に力をとどめようとしていることになってしまうからなんです。
表現を頑張れば頑張るほど、ここに陥ってしまいます。
もちろん、表現に限らず、スポーツなどでも同じこと。
本来、肉体の外に力をおよぼす必要があるにもかかわらず、
つまり、投げるボールや打つ球、殴る相手といった、
自分の内ではなく外、離れたものに力を届ける必要があるにもかかわらず、
自分の内に手応えを求めてしまいがちで、
頑張れば頑張るほど、肉体が破壊されていってしまうわけです。
先に例で挙げました、(重いものを)持ち上げる、(大きな)声を出すというのも、同じ。
自分の内に手応えを求めないほうが、結果がついてきます。
(安易な筋トレは、この良くない感覚を磨いてしまうがために、非常に危険なんです。)
ところで、最初に、肉体的な力の中に、重力を利用する外力も挙げておきましたけれど、
意識のありかによって、重心も変化しますので、ここの扱いは微妙で、分け難い。
そんなこともあって、肉体的な力も外におよぶ力も、
どちらもエネルギーという1つの言葉で表現しているんです。
意識のありかによって、重心が変化するということは、
やはり、心と身体は切り離せないわけで、丹田が重要視されるのも、ここに理由がありますね。
丹田は心にとっても、身体にとっても重心。
単純な身体の使い方としても、内面の表現としても、エネルギーという言葉が重要なキーワード。
ちなみに、オーガニックマイムでは、丹田を中心としてエネルギーを使いこなしていくことが、
稽古の核になります。
身体と心を分けたり、生命力といった単なる熱量的なものや、
全身全霊で行なうとエネルギーが大きくなるという考え方では、
取りこぼしてしまいます。
エネルギーを理解して、使えるようになりますと、
世界が変わりますよ!
1月17日 『動作塾』(今月のテーマ「刀で斬る」)
Body,Mind&Spirit
本当の自分の身体は天才だ!