さて、再び公演作品です。
残る『牛』と『声』のうち、今回は『声』。
4つ上演しました、そのラストの作品になります。
これは、幼い子どもの突然の死を扱った、本当に重い作品です。安易に扱ってはいけないものだと思います。
それだけに、最後、ラストをどうするかというのは、非常に重要なことでした。
・・・・飛び込んできた親(私)が扉を急いで開けると、そこにはすでに亡きがらとなった幼い子ども。
信じられない思いで、顔の布をはずすと・・・
時間は遡り、陽の差す中、我が子との楽しい時間。ボール遊びのちょっと目を離した隙に・・・必死に探しまわるが・・・
駆けずりまわっているうちに、時間はまた今に戻り、飛び込んで扉を開けると、そこには・・・
全てを失い、時間を失い、思い出のボールだけが残り・・・そんな中、子どもの写真を見ていると、どこからか声が・・・写真からではない・・・
「最初から涙がでてきました」
「最初のところで、もらい泣きしそうになりました」
という感想が示すように、この作品はストーリーが悲しみを伝えたのではなく、シーンが悲しみを伝えてくれました。
私の身体(心)と、観ている人の身体(心)が、アンデンティファイ或いはシンクロしたということだと思います。
この作品も非常にシンプルです。
子どもが死んだ理由は、明らかにはなりません。
子どもとの特別なエピソードが紹介されることもありませんし、何ひとつ特別な物語が示されることはありません。
そしてストレートな作品です。
音楽は、心情をそのまま表すような曲ですから、いかにもそのまんま、という感じではあります。
それでも多くの方が
「胸が締め付けられる思いでした」
という感じで、観て下さいました。
私はこの作品で、マイムの持つ表現力をダイレクトにぶつけてみたかったのです。
シリアスな感情を、シリアスにぶつけ、シリアスに受取ってもらう。
一般的なイメージでのマイム演技は、ピエロ、人形的、とにかく大袈裟。顔の表情頼りといったところです。もしくは淡々と、でしょうか。
マイムとシリアスな感情表現は結びつきません。
マイムはエンターテイメントだけではありません。そしてまた、抽象的な独りよがりばかりでもありません。
私、演者の中の感情と、観る人に感じてもらいたい感情が一致するような、空間、時間。
舞台上の登場人物のフィクションとしてではなく、私の身体を通して、感情がそのままダイレクトに転写されるような・・・
つまり、私という個人が、ある感情を発するのではなく、身体より先に感情というものが普遍的に存在し、たまたま私の身体を通ることで顕在化し、観る人の身体に、その感情が入り込む。
私の演技に、観る人が共感するのではなく、普遍的な感情というものを媒介に、私と観る人が繋がる。
舞台上の人物はその時JIDAIではなく、観ている人、その人ということ。
外から眺めて「あの人、可哀想だわ。」と涙するのとは、全く異なる体験。
『声』を気に入って下さった方は、きっと、この辺りのことを意識には上らないでしょうけど、どこか感じ取っているのでは?と思います。
言葉に置き換えられる物語り・ストーリーというものが作り出す(導き出す)、時間差のある感情・・・
ではなく、ポーリッシュマイムの身体が作り出す(導き出す)、時間差の無い感情。
まぁ、あまりにストレートで、逆に感情移入しづらいという方も、いらしゃったかもしれませんけどね・・・
と、この『声』は重~い作品でした。ラスト、救いができてよかったと思っています。
どんな救いであったかは、舞台で、ですね。
写真はすみません、横に倒れてしまっていて分かりづらいのですが、一応参考までに。