短編アニメ・・・一般的には、あまり観ることないですよね。
多少はご存知かな?と思います。
まぁ、とは言いましても、私も皆さんとほとんど変わりありませんで、
あることを思い出したんです。
2、3年くらい前でしょうか、マイム作品って短編アニメに似ているなって。
(以前、お話したことあると思います。)
もちろん、短編アニメにもいろいろな作品がありますけれど、
どれも短い時間の中で、それぞれの作家が非常に個性的に、独特な世界観を表現しているんですよね。
それに、大抵、あまり言葉が無い。
好みでないのもたくさんありますし、玉石混合といった感じもありますけれど、
やはり圧倒的なものを感じる作品といいますか作家の方がいるんですよね。
その1人が山村浩二氏なんですけれど、対談でこんなことをお話されていました。
(言葉はこの通りではないですけど)
「映画のモノマネ、代用にはなりたくない。
アニメーションにしかできない造形的な面白さ、ビジュアル的な表現の可能性を追いたい。」
「けれど、やっぱり映画だから、観る人は物語を追うだろうし、ドラマをみるであろうから、それも意識しながら・・・」
「とはいえ、単にドラマをみせるためだけではないく、両方を上手くつなげたい。」
これ、まさに私JIDAIの考えるマイムではありませんか!
嬉しかったですねぇ。こういう言葉を聞けるといいますのは。
マイムの面白さを語るのに、動きの面白さは欠かせませんでしょ?
(滑稽という意味ではなく)
動きの視覚的効果は絶対不可欠な要素だ思うんですよ。
けれど、やはり踊りではないですから、ドラマ性は必要。
以前、こうツイッターしたことがあります。
「マイム・アーティストは役者ではない、ダンサーではない、舞踏家でもない。
だからこそ、マイム・アーティストは役者であり、ダンサーであり、舞踏家でなければならない。」
マイムというものが舞台に立って、動きを見せ、ドラマを演じる(感情を表現する)ということは、
マイムには役者的要素が必要でありながらも、無言芝居であってはならず、
踊り家的要素が必要であるけれど、単なる動きのキレいさや柔軟性などの身体能力みたいなものだけで、マイマーとダンサーを比較することは違うわけでして、
それは短編アニメが映画でありながらも、映画のモノマネ・代用ではないように、
マイムが役者、ダンサー的でありながらも、他の何ものでもない”マイム”である、ということだと思うんです。
いえ、そこを目指さなければ、マイムが独立した芸術表現としてではなく、役者、ダンサーにとっての、「選択自由な基礎教養科目」程度に扱われることになってしまいます。
そう思いません?
それはさておき、山村氏は新作をつくるにあたって、
「技巧の探求から自由になり、これまで以上に純粋な描き方に身を委ねた。」
とのこと。
おお~っ!!
これも、まさに私が先日の新作『闇』で心がけたことではないですか!
山村氏と私とでは実績においては、全く比較の対象にはなりませんけれど、勝手に似ていると思ってしまいましたわ。
さらに、山村氏はこんなこともお話されていました。(実際の言葉とは違いますけど)
「短編アニメは宇宙的な広がりを表現できる。哲学も表現できる。」
そうなんです!
「マイムは宇宙的な広がりを表現できる。哲学も表現できる。」んです!
いえ、そういったことを表現するのに、適していると思うんです。
(以前にも、俳句や短歌にからめて、こんなお話をしたと思います。)
「マイムには”力”がある」ということを、最近お話しましたけれど、短編アニメには短編アニメの”力”がある!
山村氏はその力を表現しようとしている。
マイムと短編アニメに似ているなぁ。
で、それには、作り手の世界観と、それを表現しきる(表現するではなく、”しきる”!)技術が不可欠であり、
と言いますか、技術が世界観をビジュアル化するのだと思うんですけど、
それにプラス構成力でしょうか? もちろん、この構成というものも、世界観の肉体感覚化のためでしょうね。
短編アニメも私が目指すマイムも、
理解をしてもらうためではなく、視覚を通して、肉体感覚に訴えることが大事かなと思います。
(そして、そこから思考が始まるかもしれない。言葉を超えたものを理解したくて。)
山村氏の新作『マイブリッジの糸』、少し流していましたけれど、すごかった。
いいなぁ、あんな感じのマイム、作りたいなぁ。
マイムから心と身体の平和を
オーガニックな(生きた)カラダに http://jidai.mond.jp/