オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

死ぬのは恐い?

死は恐いものなのでしょうか?

死とは何か?ということ自体が、あまりよく分からないですけど、
いわゆる死んだ本人に、死は無いのではないかと思うんです。

死んだ本人にしてみますと、死んだと気が付けるようであるなら、
それは死ではないでしょ?

(死んだと気が付くって、おかしいですよね。
コントロールできる自分の肉体は無いかもしれませんけど、
気が付ける自分がいる以上、自分が死んだとは言えないと思うんです。)

死んだと気が付けないようならば・・・
そう、その言葉の通り、気が付かないわけですから、本人にとって死があったとは言えません。
(本人にとって、ですよ。)

死とは、残された人にしかないような気がします。

残された人の「喪失感」の中にあるに過ぎない。

そうしますと、なぜ自分の死を恐れるのでしょう?

未知のものだからでしょうか?

未知のものにワクワクしないのは何故なんでしょう?

まぁ、もしワクワクしてしまいますと、
生まれてすぐにでも自らの命を絶ってしまうことになりかねませんから、
やはり生命といいますのは、生きることが使命といいますか、宿命といいますか、
とにかく生きていたいという欲が、私たちの知る生命の形なのでしょう。

で、死をなぜ恐れるか?はそういう意味では生命の本能なのでしょうけれど、
現実にはこの本能としての恐れよりも、
自分の中に生まれる喪失感を恐れているのだろうと思うんです。

残される人にとって、
死んだ人はもう還ってこないという喪失感が、死を死たらしめているように、
死にゆく人にとっても、
今まで生きている間に出会った人、得た物を失うということを、恐れるのでしょう。


突然の火災などで、家財道具や思い出の品、全てを失ったらどうしよう、
という不安と同じようなものですね。

火災そのものに対しましては、
怪我や火傷の痛さを知っていますから、喪失感とはまた別の恐れを生み出すことは分かります。

けれど、死は死そのものをよく分からないわけですから、本来恐れようがないと思うんです。
死によって生まれるであろう喪失感を恐れているだけのはずです。

ですから、
喪失感を生み出さない死には、あまり頓着がないはずなんです。

全てを失ったと思う人が死を選んでも、不思議はありません。

遠いところでの見ず知らずの赤の他人の死は、他人事です。
ニュースで毎日のように流れる誰かの死に、いちいち涙を流す人はいないでしょう。

どちらも、喪失感が生まれないから。
執着がないから。

そうしますと、自分の死も、自分の生(出会った人や得た物)に執着しなければ、
喪失感は生まれないでしょうから、恐れることもなくなるわけです。


そして本来、生とは死にゆく変化の過程にしか過ぎないわけですから、
生に執着するということ自体が、本来成り立ちません。

死を恐れない。
死というものを受け入れ、生に執着しない。
それでも、生を大事に出来たらいいなぁと思うんです。


そのためには、日頃からあらゆる経験(人・物)に執着せず、
けれどその経験を大事にしていくことが求められるのだろうなぁと思うわけです。

大事なのに簡単に手放せる・・・

ふ~~~ぅぅ。。。なんだか程遠いわ。。。

でも、マイムをしていますと、何となくその世界を生きている感じはするんですよね。

全ての瞬間を大事にしつつ、執着はせず、変化の中を生きていると。

頭でそう思うのではなく、肉体的にそう感じるんですよね。

少しずつでも現実に活かしていければなぁと思います。