臓器移植法の新案が検討されているらしいですね。
この法律の話を耳にするたび、つくづく「死」というものは無いんだなぁ、と思うんですよね。
臓器移植法の最大のポイントは、どれだけ多くの人が「人の死」というものを、
「身体の一部は生きているようだけれど、全体としては死ということでいいですよ。」
と、本気で思ってもらえるかどうか?ということですよね。
そう、つまりは、思えるかどうか?
「死」というものが、私たちの思考とは別に、独立して存在しているわけではないということですね。
簡単な話が、「死」がどういったものかは、自分たちで決められるということ。
で、私たちは、自分というものを単なる肉体とは思ってはいないものの、意識だけとも思っておらず、かといって、肉体と意識が同じひとつのものでもないわけで・・・
ところで、臓器移植法で扱う「人の死」では、脳死の扱いも問題になるようでして、何をもって脳が死んだとするのか?これも難しいようですね。
当然ですよね、人であろうと脳であろうと「死」というものは客観的に存在するものではなく、
主観で決めるべきものなんですから。
だれの主観か?
世の中は、
『多数派の主観=正しい』
ということで、成り立っていますから、とにかく大勢の人が、同じように考えてくれることが重要ということになりますね。
説得か?洗脳か?
あるいは、いわゆる大衆には考えないでもらうようにするか?
はたまた、声を挙げないでいてもらうか?
まぁ、いずれにしましても、「死」はどこにも無いわけで、話は逸(そ)れますけれど、「死後の世界」を見たなんていう人は、何の世界を見てきたのでしょうね?
「死」が無いのに、どうやると「死後」が存在するんでしょ???
う~ん、そうですねぇ、、、死の判定を受けて、臓器摘出をした後にでも
「私は今しがた、死後の世界を見てきた~っぁ!」
って、してくれましたら、何だか信じてしまいそうですね。
(それでもやはり「死」が存在しないことに変わりはないと思うんですけど・・・)
さてさて、「死」というものが、私たち「生きている」人間が決めることだとしますと、
死んだ当人は、どのようにして「死」を感じるのでしょう?
どのようにして「死」を受け入れるのでしょう?
肉体だけでもなく、意識だけでもないこの「私」は、
世間で言う「死んだ」時、はたして「死ねて」いるのでしょうか?
あぁ、、、答えは出ぬまま・・・