オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

代理母は地球を救う?

代理母による出産って、何も考えずに反射だけでいきますと、いけないことと思ってしまいますけど、考え始めますと、なんて難しい問題なんでしょうって・・・。
しかも、自分の母親に代理になってもらうって、いやぁぁ、ほんと、科学の進歩は、私たちに倫理を投げかけて来ますねえ。

科学の進歩は、私たちを物質的豊かさで満たすのが先か、その精神を破壊し人間でなくすのが先か?といったところですね。

ま、ちょっと具体的に考えましょう。
代理母が肉体的に危険かどうかというのは、この種の問題の本来的なところではありません。単純に考えて、 100%安全ならいいか?って、そんなことには、なりませんものね。

それと、生まれた子供が幸せになれるかどうか、というのも問題ではありません。誰が自分の親かということと、幸せは、本来何の関係もないはず。幸せというのはあくまで、その人個人のもので、外的要因が幸不幸の要因になるかどうかは、その人がその外的なものを、要因として選択するかどうか、です。

そもそも、幸せになれないかもしれないからって、その子を産んではいけないなんてことがあるんでしょうか?紛争の絶えない地域で子供を産むことは、罪なんでしょうか?
今の日本でだって、同じことだと思うんです。未来に希望が持てないから子供を産まないっていう人もいますけど、その人自身は、何の希望もなく生活を続けているんでしょうか?死ぬよりは、何かしらいいと思っているから、生きているわけですから、少なくとも、生まれてこないより、生まれてきた方がいいって考えては、おかしいですか?

ちょっと熱くなってしまいました・・・ふぅ~。。。

で、代理母です。技術的に出来てしまうものは、法律的になんらかの形で抑え込みましても、その欲求はもう後戻りはできませんから、考えなくてはいけないことは、どこで線引きをするかということではなく、このかつてない状況、親子とは?人間とは?生命とは?ということでしかないはずなんです。

・ ・・わかりません。あららぁ・・・
ただ言えますことは、これまでのような、血縁というものの重要性を放棄していかなくては、ならないであろうということ。
誰が、誰の子で、親で、という、狭い小さな繋がりにしがみつくのではなく、そう、行き着く所は、「人類、みな兄弟っ!」ってぇやつですね。

素晴らしいじゃありませんか。みんなが口々に言う、「地球はひとつ」が実現できるんじゃないですか?
科学の進歩を受け入れますと、素晴らしいことが待っているようですよ。

と、そんなことを言っておりますが、結局のところ、血縁に対するこだわり、つまりは子供を自分の一部であり、支配下にあるもの、所有物として、とらえてしまう感情、欲求は、今の社会では無意識的に当然視されていると思うんです。
どうしても自分の子が欲しいとか、子供が欲しいのに出来ないのは、可哀想だとかって。

ですから、代理母に限らずですけど、この手の問題は、同じ感情で判断するのか、感情抜きの理性・精神で判断するのか、これは大変大きな問題で、ここを踏まえませんと、何か適当なところで妥協する以外にないんだと思います。
と、踏まえられたたところで、私たちは、感情だけで生きるのでもありませんし、理性だけで生きるものでもないのです。ああ~あぁ。。。

まあ、何をしましても、そうやって生まれてくる子が、全くいなくなるわけではなく、少ないというだけで、いるにはいるんですよね・・・

最初にも言いましたけど、豊かにしようとしながら、それを享受する人間(精神)を破壊してしまう力をもっている科学、その科学自体も人間が行なっているという、なんて皮肉な構造なんでしょうか・・・あ~あぁ。。。