前回、教えて教えられるものではない、というお話をしましたけれど、
それでいて何故教えられるのか?
そこには、教えを受けようとしてくれる生徒への信頼があるからです。
「分かるはずがない」という気持ちが、少しでも私にあったなら、教えることはできませんでしょ。
「必ず分かる」という、絶対の信頼を持っているからこそなんですね。
もちろん、分かるまでに必要な時間は、人それぞれですから、早い人もいますし、遅い人もいます。
けれど、それは信頼するしないとは全く無関係。
遅いからといって、信頼が揺らぐことはありません。
ところで、JIDAIマイムクラスのレッスンは、たんにパントマイムのテクニックを教えるといった感じではないですし、
特に、身体の本質的な内側からの力を養う「JIDAIクラス」では、
最初のうちは何をしているのか理解しづらい面があるんです。
ですから、テクニックだけを手っ取り早く教えてもらいたいという人には、戸惑いが大きいと思うんですよね。
それでもレッスンから何かを感じ取って、つまり理解はしていなくとも
「これは何かあるぞ」
と感じているからこそ、分かっているからこそ続けられるのだと思うんです。
そう、、、分かっているんですよ!
身体の深いところでか、意識の深いところでか、頭では理解出来ずとも分かっているんですね。
面白いですよね。
出来ていない、やったこともない。
けれど、分かっている。
そうと知っていた。
身体がそう感じ取るんです。
未知の事ではない。新しいことを学ぶのではなく、既知のことを思い出すといった感じですね。
このとき、その人は私JIDAIの教えを信頼していると同時に、
自分自身を信頼しているに他ならないと思うんです。
未知でありながら既知であるそのことを、自分自身を信頼して思い出していく。
私はその態度・姿勢に信頼を感じているわけですね。
ただし、この場合の思い出すといいますのは、身体がそのように動くようになる、
ということでありますから、それなりの時間は必要。
その人がその時間を長いと感じるか、短いと感じるか?どこまで動くようになったか?
他人と比較することに意味はありませんでしょ。
なにせ、自分自身を信頼してやっているんですから。
他人と比較して、その信頼を揺るがす必要はありませんよね。
もちろん発奮材料として、また、凄い先ではなく少し先の目標として見るのはいいですよね。
で、実は私自身もまだまだ思い出さなければいけないことがたくさんあるわけですから、
そういう意味で、生徒というのは生徒ではなく、同じ目標にむかっている仲間だと感じるわけなんです。
私は教えているというよりも、道標になれるようにと、みんなの方を振り返りつつ歩いているといった感じかしらね。
私に追いつけ、追い越せという気持ちで、振り返っているんです。
喜びに溢れた歩みなんです。
一緒に進みましょ~~~!