思いと技術といいますのは、とっても微妙なバランスですね。
きのう始まりました『身体詩~眠る夢~』の紹介の時や、実際に観に来てくれた仲間の1人とも話しをしたんですけど、
マイムのように動きの訓練を積んでしまいますと、動きが表現をしてくれるという安心感が生まれてしまうんですよね。
もちろん動きで何かを表したいということでしたら、いいんですけど、それは説明になってしまいやすいと思うんです。
逆に動きの訓練を(マイムやダンスに比べて)してきていない人が説明的な動きとしてではなく、
身体で表現しようとする場合には、思いを強くしなければ!という意識が強くなる。
と言いますか、強くせざるを得ないために、身体から表れてくる表情に大きなエネルギーが生まれてくるんですよね。
動きが上手いか下手か?という視点では何とも言い難いですけれど、やはり思いが強い方に魅力を感じてしまいます。
このあたりのことは本当に難しいところですけれど、
上手に動ける人の演技は、どうしてもどこか中の思いがついてきていない感じがするんです。
思いの強さが動きを上回ってきてくれない。
あるいは、最初に言いましたように、動けるという安心感から思いを大事にする気持ちが薄れてしまう。
いや、、、もしかするとですね、上手に動けるようになればなるほど、動きが壊れることを恐れてしまうのかもしれない。。。
(う~ん、、、私自身にもあてはまりますねぇ。。。)
パントマイムに限っていいますと、一般的には動きで表現しようとしますから、
話の筋が追える作品や、1つ1つの動きの意味を伝えようとし過ぎてしまいます。
一方の『身体詩』のように動きの上手さで勝負するのではなく、表情で勝負しようとしますと、
トータルとして伝わるものが大事になってくる。
(ダンスや舞踏に近い感じですね。)
どちらが良い悪いということではないんですけれど、私個人としましては、マイムはもっと後者のような感じを追求してもいいのではないかなぁと思うんです。
いえ、、、私JIDAIの個人的な方向なのかもしれませんね。
動きで語るのではなく、身体が語る・・・
動きの特別な訓練をしていない人が思いを強く持つことで、表情豊かな身体になるのですから、
ポーリッシュマイムをやるからには、動きを追求する中で、その動きを凌駕するだけの思いを身体の表情として表せるようになることを目指さなければと思うんです。
身体を動かす技術の訓練だけではどうしようもないんです。
(「真呼吸クラス」と「アクトクラス」をセットでやっているのは、ある意味私自身のためでもあるんです。)
まだ土曜、日曜と『身体詩』の公演はありますけれど、非常に刺激になり勉強になっています。
ぜひ皆さんもご覧になって下さい。