オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

感情表現の技術?

技術というのは、何でしょう?



先日、『エモーショナル・ボディワーク』の感情表現法を体験した人とお話をしていた時に、その人は


「こんな感覚があるんだ!?」


って、びっくりしてくれたらしいんですけど、私はそれを


「ねぇ、こういう感情表現の技術を多くの人が・・・」


と言いましたら、


「技術っていうか・・・そういう感じではないと思うんですけど。」


と言うんです。




はぁ、、、考えてしまいました。。。


私は技術だと思っているものが、人によっては技術ではない・・・


これって、どういうことなんでしょう?と。




で今のところの考えた結果としましては、
技術といいますのは、「再現性があるかどうか」かなと思います。



『エモーショナル・ボディワーク』は、
感情表現の高度な再現性を狙って作ってきたワークですから、技術であるはずなんですけど、
まだ身についていない人にとっては、私に誘導されて味わったひとつの体験でしかなく、
技術とは考えづらいのだと思います。


これが体験としてではなく、いつでも意識的に再現出来るようになれば、技術と感じられるのかなと。


あるいは
技術と言いますと、なんだか決まった形を作っていくような感じがして、
感情表現と技術という言葉が結びつかないのかもしれません。


確かに、形を目指すのかどうかで考えますと、そうではないですから、
『エモーショナル・ボディワーク』で培う感情表現は技術ではないのかもしれません。



けれど、身についていないのに出来てしまう。
それが偶然でもなければ、急に目覚めた訳の分からないものでもなく、
もちろん、習熟度によって達成出来るレベルは違うでしょうけれど、再現可能であれば、
やはり技術だと考えていいと思うんです。
それも、自分自身はもちろんのこと、他の人でも再現可能なわけですから。





ところで、最終的には技術の向こう側へ行かなければ、とは思いますけれど、
他人からは向こう側へ行っているように見えるものも、
実は当人にとっては技術のうちということはあると思います。
(逆に当人は向こう側に行っているつもりが、他人からは痛々しく見えることはあります。。。)



殊に、感情表現の技術といいますと、
なんだか「そんな感情は嘘っぱちだ!」と思われるかもしれませんけれど、
技術でまかなえる範囲まで神経すり減らして頑張るよりも、
技術を踏み切り板として飛ぼうとしたほうが、いいのではないかと思います。


しかも、現実の人生で味わう感情なんて、そんなに種類は多くないですし、エネルギーも大したことはありません。
よほど波瀾万丈、壮絶な人生を経験してきていない限り、その中から引っ張り出して来た感情では、大した強さを持てないと思うんです。



と、話が逸れてきていますので、元に戻りましょうね。


つまるところ、技術といいますのは、偶然性のものではなく再現性があり、故に個人的な出来事ではなく、誰のものでもない無名性のものだと思うんです。
大袈裟にいいますと、宇宙の法則の中にあるので、みんなが共有できるものかなと。


それを、ある人が気が付き、身に付け、
まだ知らない人にとってはそれが、何やら技術とは思えず、不思議なものに思えてしまう。
これも大袈裟に言えば、天才だと思ってしまうような。。。

大リーグのイチローの技術は、まさにそんな感じではないかと思います。
他の人からは偶然うまくいったのだろうと思うようなことも、イチロー本人にとっては技術として再現可能であるように。




私はいち指導者として、そんな、一見非常に個人的に思われるような技術を、
他の人に言葉でもって、また道筋をつけて指導できるかどうか?
そしてさらに、教えを受けている人にとって、
それが形としてではなく、その人自身の技術となるように、導こうとしているかどうか?
が問われると思いますし、

習う側は、そんな技術を持っている人に憧れを抱くのではなく、
自分の技術として身につけようとしているかどうか?
あるいは、そこから別の技術を生み出そうとしているかどうか?
とても重要なことだと思います。



なんだか偉そうになってしまいました。。。



マイムから心と身体の平和を。