オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

身体表現の記号と内面

マイムや踊りだけでなくお芝居なども含めての身体表現の訓練には、
2つの方法がありますね。


1つは、内面が身体に現れるから内面を鍛える(見つめる)というもの。
もう1つは、動きを鍛えていくもの。


お芝居などは、たいてい前者。
ダンスはたいてい後者。
舞踏は前者。
といったところでしょうか。


身体の動きを見てもらうものは、当然動きを鍛えるでしょうし、
内面を見てもらいたいものは内面を鍛えるのでしょう。
当たり前と言えば当たり前。


なんですけど、、、


内面を見てもらうと言っても、観客の目には身体の動きが映りますし、
身体の動きだけを見てもらいたくても、観客は内面を見ていたりしますでしょ?


身体と内面って、演者にとっても観客にとっても切り離せないものなんじゃないかなぁ、
と思うんです。



そこで、訓練法ですけれど、伝統的な形のあるものはやはり、まず徹底して動きを鍛えていきます。
気持ちだけでバレエや日本舞踊を踊れるわけがありませんものね。


それはある意味、他人から見て記号的にその種の踊りであることを伝える必要がある、ということ。
ですから、記号を身に付けなければいけない。


一方、伝統的な形のないもの、言い換えますと記号を示すことに重きをおかないもの、
むしろ記号を感じさせたくないものですと、とにかく内面を鍛えていくことになるのだと思います。



マイムはといいますと、これは伝統的といえるほどのものではないものの、記号的に伝えられますし、記号的に伝えるものだと思っている人たちもたくさんいます。
と言いますか、古典的なマイムは記号マイムなんだと思います。


いずれにしましても、記号は教える方も教わる方も助けになりますよね。
正解が自分の外にあるわけですから。


けれど、この記号というものは、いわばマニュアルみたいなもので、
それを身につければいいというものではなく、
「分っていると楽にそれっぽくいけますよ」
というものだと思うんです。


(もうひとつには身体の使い方を矯正していくという役割もあると思いますけれど、
それはまたいずれ。)



であるのに、記号を身につけるにとどまらず、その記号をキレイに見せようというのは、
本来の道からはどんどん離れていってしまいます。

大事なことは、

「なぜその記号になるのか?」

という大もとを見つけることではないかな?と思うんですよ。
そうしますと、その記号は美しくなりますし、記号以上の力を持つようになりますよね。


で、この「なぜその記号になるのか?」は身体的な意味だけでなく、
内面的なものにも目を向ける必要が出てくるはずなんですね。


もしそうならないのであれば、それは身体表現ではなく身体運動に過ぎないものになってしまいます。


たとえ、その身体運動をしながら表現をしているといっても、それは身体運動表現だと思うんです。


バレエでも日本舞踊でも、
この身体運動表現ではなく、身体表現になれるかどうかは、大きな分かれ道ですよね。




一方、記号のないもの、内面を重視したものですけれど、
これとて身体に(動きも含めて)表れてこなければ、ただの妄想あるいは思考でしかなく
身体に目を向ける必要があるはずなんですね。


で、その身体とは内面が出てくるのを邪魔しない、素直な身体であるほうが良いでしょうから、
むしろ難しいと思うんです。
しかも繊細な内面を出すのであれば、なおさら。


(お芝居で必要以上に大きな動きで演技してしまうのは、
内面よりも、身体の問題の方が大きいかもしれませんね。)




動きを重視するものは、
慣れない動きを一生懸命習得しなければならないのに、そこに内面を一致させるとなりますと、
よほど内面がしっかりできていませんと、自分の動きに負けてしまって、
観客には内面が届かないでしょうし、
内面を重視するものは逆に、よほど身体がいうことを聞いてくれませんと、
やはり内面を届けることが難しくなってしまう。

そう思うんです。



さて、本当のマイムとは?