オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

どうしてなかなか身につかないのか?~快・不快~

身体の使い方を技術のように覚えるのだとしたら、

それはとても残念なことだと思うんです。


身体を良くしたい、身体の使い方をよくしたい、パフォーマンスをあげたい、
という事に対して、世の中には整体などの治療的なもの、
いろいろなトレーニング方法やボディワークがありますよね。
中には古武術系のワークを利用する方もいらっしゃると思います。

それぞれ効果があるから利用する人が絶えないのでしょうけれど、
効果には差がありますし、何をやってももうひとつ、という方も当然いらっしゃると思うんです。

私自身もそれなりに長いこと、身体の使い方を大事にして指導してきましたけれど、
飲み込みの良い人とそうでない人と差があります。

当たり前と言えば当たり前かもしれませんけど、どこに差があるのでしょうね?

・・・という、疑問に対して生まれたのが、冒頭の言葉なんです。


技術として見ているから、

上手くいかないのではないか?


といいますのは、まず私のレッスンでの飲み込みの良い人とそうでない人とを比べますと、
こんなことが見えてくるんです。


<飲み込みの遅い人>
・運動経験がそれなりにある。



<飲み込みの良い人>
・運動が嫌いだった。苦手だった。していない。



私のレッスン内容は、一般的にイメージされるトレーニングではないものですから、
まずもって、どなたにとっても初めて経験するような動きなんですね。
けれど、やはり運動系ですから、運動経験のある人の方が、有利だと思うんです。

ところが、意外なことに、
「運動が嫌いだった。苦手だった。していない。」という人の方が、
飲み込みがいいことが多いんです。
運動経験のある、それもかなりやってきた人の方が、
かえって手こずってしまうという姿がよく見られます。

不思議ですよね。年齢も関係無いんですよ。


ところで、飲み込みが遅いからといっても、
何かピンとくるところがなければ、通い続けることはないですよね?


<飲み込みは遅くても、ピンとくる人>
・踊りでも運動でも、指導している。
・いろいろと習ってみたけど、どれもピンとこなかった。


こんな傾向があるんです。
ひと言でいいますと、

「経験の多さ+困っている面がある」

だと思うんですね。

自分のしてきた(している)ことに、どこか違和感を覚えていて、
何か良いものがあるのではないか?と無意識レベルであっても
探しているような、本当に成長したい!本物を習得したい!と思っている人ですね。


一応、ピンとこない人にはどんな傾向があるか見てみますと


<飲み込みが遅く、ピンともこない人>
・運動はしているものの、形や外側しか見ようとしない。
・既製の情報から離れられない。
・自分のやり方から離れられない。



<飲み込みは良いけれど、ピンとこない人>
・踊りをしていて、柔軟性が高過ぎる。
(形を真似ることが上手ということで、本当の意味で飲み込みが良いわけでは無いのですが…)



さて、ここまでは私のクラスの人を見てきましたけれど、
外部のクラスやワークショップに、いち受講者として参加した際に、
そこに参加している人たちを見て感じてきたことを総合しますと、


快・不快に対して敏感な身体になることが、

実は非常に大事なのではないか?

ということなんです。


整体系でもトレーニングでもボディワークでも古武術系でも何でも同じだと思うんですけど、
その場、その時には良い身体になって、良い動きが出来ても、
それが気持ちいい!快の状態であることを感じ取れていないと、
再現性が限りなく低くなるように思うんです。

なんとなく体が軽くなったとか、無理がない気がする、といった程度では、ダメなんです。
それは、体の変化を頭の中で無理に解釈しようとしているだけですから、快の状態ではない。


人は快の状態を必ず求めます。

今の身体が悪い状態だとしましても、
それは本当は不快であるはずの状態を、快であると勘違いしてきた、
つまり自分としては快の状態を続けてきた結果なんです。

どうして、勘違いが起きるか?といえば、
身体に関して間違った情報を信じてしまったりであるとか、
周りの人たちの悪い状態がミラーニューロンの働きで、写し取られたりしたのでしょう。


快・不快の判断が狂った身体になっている

ということなんですね。


私のレッスンで
<飲み込みの遅い人>
・運動経験がそれなりにある。
<飲み込みの良い人>
・運動が嫌いだった。苦手だった。していない。

というのは、
運動経験によって快・不快の判断が狂った身体になってしまったということです。
一方、
運動が嫌いだったという人は、
いわゆる運動が不快な状態を強要するものだから嫌だったのです。

つまり、快・不快に敏感な身体であったということなんです。


ですから私のクラスには、運動が嫌いだったけれど、
クラスに通うようになって、身体を動かすことが楽しくなったという人が多いんです。
(嬉しいですね。)


ピンとこない人は、快・不快の判断が狂っている場合もあるでしょうし、
快・不快の判断が出来ないような身体になってしまっている場合もあると思います。
頭で考えてしまって、身体の感覚を閉ざしているんですね。


さて、冒頭の
「身体の使い方を技術のように覚えるのだとしたら、それはとても残念なことだと思うんです。」
ですが、これは、自分の身体とは向き合えていないことを残念だというわけです。

快・不快に目が向けば、習っていないことでも、
いつでも自分で動きながら判断出来るようになります。

実際、私のクラス生は多くの人が、
日常の場で「あっ、これは違うぞ。」「おっ、こうすると良さそうだ。」って、しているようです。
もちろん、楽しみながら。

それは、やはり人は快の状態が好きだからだと思うんですね。


快・不快に対して敏感で、その判断に狂いのない身体になる

という視点を持ってみてはいかがでしょうか?



参考過去記事



Body,Mind&Spirit 本当の自分の身体は天才だ!




マイムから心と身体の平和を


ホームページ http://jidai9.wix.com/jidai

Twitter  ORGANIC_JIDAI



日本アートマイム協会

ホームページ http://jidai9.wix.com/artmime