身体的な快・不快を感じる力というのは、生き物にとって原始的・本能的なものですけれど、
人間はその力が思考によって歪められていきます。
思考といいますのは、社会生活に適合していくことと切り離せないものです。
もし歪むことがなく、快・不快を大事に出来ていれば、
偶発的なことによるケガはあっても、
ケガとは無関係な、痛みを抱えることはないはず。
また、快・不快を感じる力の歪みが、思考を歪ませていきます。
もちろん、無意識に。
ですから、本来快適なはずの動きをしても、
全員が快適に感じるか?といいますと、そうでもないんです。
例えば、膝に痛みを抱えているといったように、
身体のどこかに痛みを抱えている人は、
快適には感じられないんじゃない?
と思われるかもしれませんけれど、
よほどの無理がなければ、
本来快適なはずの動きで、素直にそのまま快適さを感じます。
痛みが気にならなくなるんです。
一方で、特に問題のない人で、かえって辛さや痛みを感じることがあるんですね。
どうしてだと思います?
これは、普段の動きに歪みがあるにもかかわらず、
それで慣れてしまっているので、
歪みのない動き、本来なら快適であるはずの動きが、
その人の身体にとっては、歪んだ動きになってしまうからなんです。
これは、何か特定のことをやり続けた人に多く見られます。
それだけ、しっかり取り組んできた証でもあるわけですね。
とはいえ、その特定の動きに対しての快・不快を感じる力が歪められてしまっていたということでもあります。
ここはガマン!みたいな感じかもしれません。
ですから、運動嫌いであまり何もしてこなかったという人が、かえって快適な動きを体験しますと、
気持ちいいー!!ってなるんです。
しかも、ちょっとハードな動きでも、です。
運動嫌いとは思えない感じなんですけど、これは学校の体育とかスポーツといったものが要求する不快な動きに対して、敏感だったんだろうと思うんですね。
そもそも、私たち動物が、動くことに対して不快であったら生きていけませんものね。
動くことに快適さを感じられるようになっているわけで、
その本能的な感覚を歪めるような体育とかスポーツ指導によって、運動嫌いが生じるだけです。
ということでして、そうしますとよく耳にする
自分が快適に感じられる動きをしましょう!といった言い方は、
もっともらしいけれど、そもそもの快・不快を感じる力が歪んでいれば、
身体はますます歪むわけで、
しかも、この手の言葉にそのまま乗ってしまう人ほど、
快・不快を感じる力が歪んでいる場合が多いように見えるんです。
最初の身体のどこかに痛みを抱えている人ですと、
痛みをかばった動きにしてしまいます。
本来快適なはずの動きというのは、かばう動きではないんですよね。
かばうことで、身体はますます歪みます。
次の歪んだ動き方がむしろ快になってしまっている人は、言わずもがなですよね。
最後の運動嫌いな人は、そもそも運動したくないんです。
この言葉に乗らない人ですね。
自分が快適に感じられる動きをしましょう!は、もっともらしい言い方ではあるけれど、
言わない方が良い言葉。聞かないほうが良い言葉。
これは、身体だけでなく生き方も同じだろうなと、私は思っています。
ただ、歪んでいることが全て悪いわけではなく、むしろ歪みがエネルギーになっていることもある。
それぞれの人生ですね。
快・不快を感じる力は原始的な力なので、あまりに当たり前のものになってしまっているかと思います。
あらためて、ご自分の快・不快の感じ方を見つめてみては、いかがでしょう?