因果なんてない!
原因があって結果があるなんていうのは、まやかしです!
・・・と、何をわけの分からないことをって、思われるかもしれませんね(笑)
もちろん、因果はあると思っているんですよ。
ただ、
原因はその人の”物語”としてしか存在しない
ということなんです。
原因が先にあって、結果があるのではなく、私たちには結果しか見えない。
その原因となるものは、遡って考えるしかない。見えていないものを、見ようとしているわけです。
となりますと、どうしたって見たいものしか見えない。
そう思いませんか?
このことは、人によっては当たり前の考え方だと思いますけれど、
私たちは物語をつくらずには生きていけないので
(『ひとは物語を生きている。だからこそ・・・』をお読み下さい。)、
その物語を補完するだけであって、
本当にその原因がその結果を招いたのかどうかは、分からない。
それは例えば、私が身につけた身体の使い方や表現力も、
私が思っている「◯◯をやれば、身につく」が、必ずしも正しくはないということなんです。
誤解を恐れずにいいますと、私が言葉にしているものだけでは無理でしょう。
それは、私が言葉にできていないものがあるというだけでなく、
私が原因として考えていないものが、原因になっていることが必ずあるからなんです。
ところが一方で、はたから見れば明らかに原因だと思えるものもあったりする。
私自身は無関係と思っているのに、はたからは、その要素あればこそだと。
さて、何が正しいのでしょう?
分かりませんよね。
私にとっては物語の要素ではないけれど、
はたからは、その要素なくしては、物語をつくれないというだけですし、
しかも、こういった要素が、無数にあり、数限りない要素が複雑に絡んでいるわけで、
証明のしようもない。
ただただ、物語をどう作るか?だけなんです。
そうしますと、
「◯◯をすると健康になる」
「◯◯をすると身体パフォーマンスが上がる」
といったものも、
結局、自分の物語に合うかどうかで見ているに過ぎない
ということが分かります。
で、もしかしたら、本当に望んだ結果が得られるかもしれません。
けれど、それは本当でしょうか?
どのスパンで見ての結果なんでしょう?
実際にはその◯◯が原因ではなく、真剣に向き合うようになったからであって、
別の◯◯でも同じ結果が得られたかもしれない。
あるいは、◯◯が有効に働くには△△が必要で、△△がない人はむしろ◯◯が悪く働くかもしれない、
ということもあり得ます。
それは、本人にも他の誰にも、本当のところは分からない。
ただ、結果があるだけ。
世間に流布している◯◯も、
受け手、つまり私たちが望む物語を汲み取れていればいるほど、多くの人に支持されるのであって、
本当かどうかとは関係ない。
”体幹を鍛えた成果”という言葉を耳にしますけど、
それは、体幹を鍛えることに良い面はあっても悪い面はないと、
多くの人が信じて疑っていないからであって、
別の要因を探してしまうんですね。
そうやって、
自分の物語に都合の良いように、ねじ曲げてしまう。
もちろん、かくいう私も注意しなければいけません。
だからこそ、
自分の物語に固執することなく、
いつでも他の物語の可能性を残しておかなければいけないと思うんです。
伸び悩んでいる、ケガが多い、故障を抱えている、心が疲れている・・・
物語を見直してみてもいいかもしれませんね。
2月1日 『声(音)を体に響かせる〜身体感覚を磨く』
2月12日 『「立つ」「歩く」レッスン 土台編/中級基礎編』
2月15日 『表現者のための呼吸 心と身体のワークショップ』
Body,Mind&Spirit 本当の自分の身体は天才だ!