物語の世界の外に出ている人間として、舞台に立つ(物語の世界を生きる)のか?
そうではなく、物語の世界にいる人間のままに、舞台に立つのか?
地続きか? 幽玄性か?
というお話の前に・・・
私たちは、なぜ生まれたのか?
生きる意味とは何か?
という、
常につきまとう問いがありますけれど、
意味なんて無い。
もし、意味があるのなら、なぜ、意味を探すのか?意味を求めるのか?
あるものを、求めたりはしません。
無いから求める。
心の深いところで、自分たちが生まれてきた意味の無さを、きちんと感じているから、
意味を求めるのだと思うんです。
で、もし仮に、意味を探し当てたとして、
それをどう確信するのか?
自分の信じ込む力でしか、確信出来ないのだとしたら、いつでも揺らぐ可能性があるということ。
他人によって、客観的に確信させられることがあるとして、それならば、
自分でない人間が、自分の生きる意味を知っているということになり、
ならば、自分は他の人の誰か、あるいは全ての他人の生きる意味を知っているということにもなる。
そんなことがあるだろうか?
そんな確信のしようのないもので、常にゆらぎの中にあるものならば、
たとえどこかに意味があったとしても、結局、無いのと同じではないだろうか?
実際にあるか無いかはともかく、自分にとっては無いのと同じ。
けれど、意味無く生きていくほど、辛いものはない。
だからこそ、人は自分の生きる物語を必要とする。
人間と動物の違いは、生きる物語を必要とするかどうかであろう。
自分の生きる物語を認められないとき、人は苦しみを感じる。
仏教でいう解脱とは、この物語から離れることではないだろうか?
生きる物語を必要としなくなったとき、それを解脱というのではないだろうか?
物語を必要としなければ、決して苦しみは生まれない。
たとえ、肉体的な痛みがあったとしても、痛みを感じるにとどまり、
そこに余計な意味(辛い、痛みよ消えろ、早く治れ、なぜ痛みを味わわなければならないんだ?…)を
上乗せする必要が無い。
そして、悟るというのは、物語を客観視することではないだろうか?
自分に起きていることを、客観視する。
であるから、一度悟ったら全て解決するということではなく、
出来るだけ悟る時間を長くする、悟る機会を多くすることが必要なのであろう。
悟りと解脱の違いは、例えば、痛みがあったとして、悟っているだけの場合は、
余計な意味を上乗せしていることに気がつくということで、
必要無くなった状態ではない、といったことだろうか?
解脱や悟りの話はともかく・・・
そもそも、物語の主人公は自分をおいて他には無い。
つまり、アイデンティティーの確立というのは、
自分の生きる物語の確固とした主人公になるということ。
主人公であることを、確信すること。
一方、
自分というものを意味ある存在にするために、物語を必要としているわけで、
自分というものにすがりつけばすがりつくほど、物語から脱することは叶わず、
苦しみからは逃れられない。
本来、自分という存在に意味は無いにもかかわらず、
自分勝手に自分を主人公とした物語を作り続けているのが、
私たちの人生。
どんなに物語を強固にしても、所詮、意味がない。
つまり主人公は自分の中にしか存在しないので、
自分で自分を規定するという、
完全に矛盾した、堂々巡りを行なっている。
出口の無い迷路。
ここで、ようやく冒頭に戻り・・・
そんな私たち物語を生きている人に、他者からの働きかけで、
物語を手放してもらうためには、
一時的に物語が必要。
矛盾しているようだけれど。。。
物語の世界の外に出ている人間として、
舞台に立つ(物語の世界を生きる)必要がある。
そうではなく、
物語の世界にいる人間のままに舞台に立つと、
観ている人と同じ地平に立ってしまい、地続きの物語になってしまう。
一見、どちらの物語も同じように見えるけれど、全く違うもの。
前者には幽玄性が立ち上る。
私がオーガニックマイム(アートマイム)には、癒しの力があると考えるのは、
この、物語を手放させる力なのだと、あらためて思いました。
そしてやはり、一時的な物語として、物語性が絶対的に必要だということも。
では、最後に。
「物語の世界の外に出ている人間として」というのは、単なる気持ちの問題ではない。
身体性抜きには語れない。
であれば、身体表現者としての日々の稽古が、単に動けるようにすることではない、
そんなことも明確になってくる。