運動でも踊りでも、歌でも楽器演奏でも、
科学的・物理的な理論って、
どれくらい有用なのでしょうね?
例えば、発声に関して、ほんの少し勉強するだけで、
やたらと細かな人体の仕組み・作用の話が出てきます。
こんな作用を、意識的に生み出せるの??
というもののオンパレード。
(実際問題として、意識的には生み出せません。)
多くの研究は
「起きていること」を研究していて
「どうやって起こすのか?」
ではないんですね。
ところが、
「起きていること」を知ること、やろうとすることが、
出来るようになるための近道であるかのように
思われているフシがあります。
そもそも、研究というのは、
仮定と実証ですから、
条件設定や変数の置き方で変わるわけで、
その範囲では、仮に間違いでなかったとしても、
実際に起きていることの全てではないと考えるべきだと
私は思っています。
つまり真実ではない!
・・・けれど、まぁ、それは一旦置いておき、
起きていることを、遡って再現することは
出来ないんです。
例えば、お箸。
今以上に、繊細に上手に使えるようになろうとして、
科学的・物理的な理論、つまり
箸を扱っているとき、どの筋肉がいつどれくらい収縮して、
また別の筋肉がどれくらい弛緩しているかを、
解き明かしたものに沿って練習していって、どうなるでしょう?
余計な混乱を招くとは思いません?
もうひとつ。
今、天井を見上げるとして、
自然に頭と、目の玉やまぶた(眉もかな?)が動くはずです。
これを、それぞれ、どのタイミングでどの程度動くのが最適なのか?
科学的・物理的に解き明かしたものがあったとして、
それに沿ってそれぞれの部位を意識して動かしたら、どうでしょう?
わけが分らなくなると思いせんか?
こういった例では、笑えているのに、
なぜか、スポーツや発声となると、
こういった細かな説明をありがたがり、
真剣に取り組んでしまう。。
こういった害を少しでも減らし、
本当に出来るようになることを目指すのが
「どうやって起こすのか?」の研究。
これは、
何をどう意識すると上手くいくのか?
どうしたら「起きていること」を意識せずに
起こすことができるようになるのか?
ということですね。
あるいは、先の天井を見上げるようなものであれば、
簡単だけれど、ちょっと特殊な、
神経系への訴えかけの強いワークをします。
科学的・物理的な理論とのつき合い方、
どうされますか?
※こんなお話をしましたけれど、
科学的・物理的な理論が無用とか不要とは思っていません。