私は「神」とか「愛」という言葉を使って、
何かを語ることは好きではありません。
いえ、むしろ、嫌いといってもいい。
ところで、今回は「才能」に関してのお話なのですが、
あえて、「神」も「愛」も使おうと思います。
自分に向いていることってなんだろう?
才能…あったらいいなって思いますよね。
才能がないことを、無理にやってもなぁ・・・って。
でも、才能があるとかないとか、それは、やってみないことには分かりませんよね。
で、よく言われるのが、
好きかどうか?
好きっていうだけで、才能があるんだよって。
そうかもしれません。
けれど、
好き嫌いもあるのかもしれませんけど、
なにか、そういったものとは違う気がするんですよね。
気になるものとか、
やってみて、ついまたやってしまうものとか、
やっているうちに、ああでもない、こうかな?みたいな工夫をしてしまう・・・
そういったものって、ありますでしょ?
そんなものの中から、例えば、私は自分の人生を捧げるものとして
マイムを選んだということですね。
(私は、天才ではありませんので、この選択をするのに、
かなりの勇気は必要でした。)
そういう意味では、私にはマイムの才能があったのかもしれません。
でも、思うんです。
ついつい工夫してしまうといった意味での才能なんて、
ひとりの人間の中に、いくらでもありますでしょ?
普段の料理でも、洋服でも、今している仕事でも、
遊びでも、スポーツでも、それこそ何でも。
と、ここまでお話していて、
まだ一度も「神」も「愛」も出てきませんね(笑)
もう少しで、出てきます(笑)
才能はだれでもいくらでも持っているのだと思うんですね。
ですから、才能のあるなしを気にしても、仕方ないんじゃないかな?
才能よりも大事なことは愛
だと思うんです。
(出てきました〜)
それは、例えば、私でしたらマイムへの愛ということなのですけど、
こういう言い方って、何だか素敵で分かった気になりながら、
実のところ、何も分からない。
そんなことありません?
だからこそ、愛という言葉を使いたくない。
私は、マイムを愛してるなんて思ったりはしません。
もし、お坊さんが仏教を愛してるなんて言っていたら、
おかしいですよね?
同じですね。
どうして、おかしいか?
それは、この場合の愛が、自分からの一方的な愛だから。
何やら、自分を捧げるみたいになりがちだからです。
やみくもに捧げたって、仕方ありません。
大事なことは、
私でしたら、マイムとは何か?を真摯に考えること。
お坊さんでしたら、仏の教えとは何か?を真摯に考えること。
マイムをすること、仏の教えを実践する以上に重要なことです。
真摯に考えながら、迷いながらも実践する。
そして、この「○○とは何か?を真摯に考え」たことが
正しいかどうか?は
「○○の神様から愛される」かどうか?
ということになります。
(やっと、神も出てきましたね。)
つまり、
○○とは何か?を真摯に考え、迷いながらも実践するとは
○○の神様から愛されるような実践をしているか?
ということですね。
ところで、私はマイムの神様がいるとは思っていません。
ただ、マイムとは何か?を常に考えているだけです。
どうしたら、マイムが生きるか(活きるか)を考えているだけです。
神という、何か人格的めいたものを想定してしまうと、
「他人に好かれようとする」のような、
ずれた考えをする恐れがあると思っています。
ですから、神という言葉を使いたくない。
けれど、神とか愛という言葉で伝わるものもあるかもしれない。
そう思って、今回はあえて、使ってみました。
最後に。
○○の才能のあるなしを気にするのは、
○○の神様から愛されているかどうか?
が気になってからでもいいのではないでしょうか?
ついつい工夫してしまうものがあるって、それだけで楽しいでしょ?